茶の表布《クロース》の少しは汗に汚《よ》ごれた角《かど》を、折るようにあけて、二三枚めくると、一|頁《ページ》の三《さん》が一《いち》ほど白い所が出て来た。甲野さんはここから書き始める。鉛筆を執《と》って景気よく、
「一奩《いちれん》楼角雨《ろうかくのあめ》、閑殺《かんさつす》古今人《ここんのひと》」
と書いてしばらく考えている。転結《てんけつ》を添えて絶句にする気と見える。
旅行案内を放《ほう》り出して宗近君はずしんと畳を威嚇《おどか》して椽側《えんがわ》へ出る。椽側には御誂向《おあつらえむき》に一脚の籐《と》の椅子《いす》が、人待ち顔に、しめっぽく据《す》えてある。連※[#「くさかんむり/翹」、第4水準2−87−19]《れんぎょう》の疎《まばら》なる花の間から隣《とな》り家《や》の座敷が見える。障子《しょうじ》は立て切ってある。中《うち》では琴の音《ね》がする。
「忽《たちまち》※[#「耳+吾」、56−1]《きく》弾琴響《だんきんのひびき》、垂楊《すいよう》惹恨《うらみをひいて》新《あらたなり》」
と甲野さんは別行に十字書いたが、気に入らぬと見えて、すぐさま棒を引いた。あとは普通の文章になる。
「宇宙は謎《なぞ》である。謎を解くは人々の勝手である。勝手に解いて、勝手に落ちつくものは幸福である。疑えば親さえ謎である。兄弟さえ謎である。妻も子も、かく観ずる自分さえも謎である。この世に生まれるのは解けぬ謎を、押しつけられて、白頭《はくとう》に※[#「にんべん+亶」、第3水準1−14−43]※[#「にんべん+回」、第3水準1−14−18]《せんかい》し、中夜《ちゅうや》に煩悶《はんもん》するために生まれるのである。親の謎を解くためには、自分が親と同体にならねばならぬ。妻の謎を解くためには妻と同心にならねばならぬ。宇宙の謎を解くためには宇宙と同心同体にならねばならぬ。これが出来ねば、親も妻も宇宙も疑である。解けぬ謎である、苦痛である。親兄弟と云う解けぬ謎のある矢先に、妻と云う新しき謎を好んで貰うのは、自分の財産の所置に窮している上に、他人の金銭を預かると一般である。妻と云う新らしき謎を貰うのみか、新らしき謎に、また新らしき謎を生ませて苦しむのは、預かった金銭に利子が積んで、他人の所得をみずからと持ち扱うようなものであろう。……すべての疑は身を捨てて始めて解決が出来る。た
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