んだね。うん、そうか」
「アレキサンダーは面倒臭いとも何とも云やあしない」
「そりゃどうでもいい」
「この結目を解いたものは東方の帝《てい》たらんと云う神託《しんたく》を聞いたとき、アレキサンダーがそれなら、こうするばかりだと云って……」
「そこは知ってるんだ。そこは学校の先生に教わった所だ」
「それじゃ、それでいいじゃないか」
「いいがね、人間は、それならこうするばかりだと云う了見《りょうけん》がなくっちゃ駄目だと思うんだね」
「それもよかろう」
「それもよかろうじゃ張り合がないな。ゴージアン・ノットはいくら考えたって解けっこ無いんだもの」
「切れば解けるのかい」
「切れば――解けなくっても、まあ都合がいいやね」
「都合か。世の中に都合ほど卑怯《ひきょう》なものはない」
「するとアレキサンダーは大変な卑怯な男になる訳だ」
「アレキサンダーなんか、そんなに豪《えら》いと思ってるのか」
 会話はちょっと切れた。甲野さんは寝返りを打つ。宗近君は箕坐《あぐら》のまま旅行案内をひろげる。雨は斜《なな》めに降る。
 古い京をいやが上に寂《さ》びよと降る糠雨《ぬかあめ》が、赤い腹を空に見せて衝《つ》いと行く乙鳥《つばくら》の背《せ》に応《こた》えるほど繁くなったとき、下京《しもきょう》も上京《かみきょう》もしめやかに濡《ぬ》れて、三十六峰《さんじゅうろっぽう》の翠《みど》りの底に、音は友禅《ゆうぜん》の紅《べに》を溶いて、菜の花に注《そそ》ぐ流のみである。「御前《おまえ》川上、わしゃ川下で……」と芹《せり》を洗う門口《かどぐち》に、眉《まゆ》をかくす手拭《てぬぐい》の重きを脱げば、「大文字《だいもんじ》」が見える。「松虫《まつむし》」も「鈴虫《すずむし》」も幾代《いくよ》の春を苔蒸《こけむ》して、鶯《うぐいす》の鳴くべき藪《やぶ》に、墓ばかりは残っている。鬼の出る羅生門《らしょうもん》に、鬼が来ずなってから、門もいつの代にか取り毀《こぼ》たれた。綱《つな》が※[#「てへん+宛」、第3水準1−84−80]《も》ぎとった腕の行末《ゆくえ》は誰にも分からぬ。ただ昔しながらの春雨《はるさめ》が降る。寺町では寺に降り、三条では橋に降り、祇園《ぎおん》では桜に降り、金閣寺では松に降る。宿の二階では甲野さんと宗近君に降っている。
 甲野さんは寝ながら日記を記《つ》けだした。横綴《よことじ》の
前へ 次へ
全244ページ中27ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング