ますね」と御母《おっか》さんが云う。
「全体どうしたんです」と小野さんは煙《けむ》に巻かれながら聞く。御母さんはホホホと笑う。
「上げましょうか」と藤尾は流し目に聞いた。小野さんは黙っている。
「じゃ、まあ、止《よ》しましょう」と藤尾は再び立って小野さんの胸から金時計を外《はず》してしまった。

        三

 柳《やなぎ》※[#「享+單」、第4水準2−4−50]《た》れて条々《じょうじょう》の煙を欄《らん》に吹き込むほどの雨の日である。衣桁《いこう》に懸《か》けた紺《こん》の背広の暗く下がるしたに、黒い靴足袋《くつたび》が三分一《さんぶいち》裏返しに丸く蹲踞《うずくま》っている。違棚《ちがいだな》の狭《せま》い上に、偉大な頭陀袋《ずだぶくろ》を据《す》えて、締括《しめくく》りのない紐《ひも》をだらだらと嬾《ものうく》も垂らした傍《かたわ》らに、錬歯粉《ねりはみがき》と白楊子《しろようじ》が御早うと挨拶《あいさつ》している。立て切った障子《しょうじ》の硝子《ガラス》を通して白い雨の糸が細長く光る。
「京都という所は、いやに寒い所だな」と宗近《むねちか》君は貸浴衣《かしゆかた》の上に銘仙《めいせん》の丹前を重ねて、床柱《とこばしら》の松の木を背負《しょっ》て、傲然《ごうぜん》と箕坐《あぐら》をかいたまま、外を覗《のぞ》きながら、甲野《こうの》さんに話しかけた。
 甲野さんは駱駝《らくだ》の膝掛《ひざかけ》を腰から下へ掛けて、空気枕の上で黒い頭をぶくつかせていたが
「寒いより眠い所だ」
と云いながらちょっと顔の向《むき》を換えると、櫛《くし》を入れたての濡《ぬ》れた頭が、空気の弾力で、脱ぎ棄てた靴足袋《くつたび》といっしょになる。
「寝てばかりいるね。まるで君は京都へ寝《ね》に来たようなものだ」
「うん。実に気楽な所だ」
「気楽になって、まあ結構だ。御母《おっか》さんが心配していたぜ」
「ふん」
「ふんは御挨拶だね。これでも君を気楽にさせるについては、人の知らない苦労をしているんだぜ」
「君あの額《がく》の字が読めるかい」
「なるほど妙だね。※[#「にんべん+孱」、51−3]雨※[#「にんべん+愁」、51−3]風《せんうしゅうふう》か。見た事がないな。何でも人扁《にんべん》だから、人がどうかするんだろう。いらざる字を書きやがる。元来何者だい」
「分らんね」
「分
前へ 次へ
全244ページ中25ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング