。
「甲野さん。頼むから来てくれ。僕や阿父《おやじ》のためはとにかく、糸公のために来てやってくれ」
「糸公のために?」
「糸公は君の知己だよ。御叔母《おば》さんや藤尾さんが君を誤解しても、僕が君を見損《みそこ》なっても、日本中がことごとく君に迫害を加えても、糸公だけはたしかだよ。糸公は学問も才気もないが、よく君の価値《ねうち》を解している。君の胸の中を知り抜いている。糸公は僕の妹だが、えらい女だ。尊《たっと》い女だ。糸公は金が一文もなくっても堕落する気遣《きづかい》のない女だ。――甲野さん、糸公を貰ってやってくれ。家《うち》を出ても好い。山の中へ這入《はい》っても好い。どこへ行ってどう流浪《るろう》しても構わない。何でも好いから糸公を連れて行ってやってくれ。――僕は責任をもって糸公に受合って来たんだ。君が云う事を聞いてくれないと妹に合す顔がない。たった一人の妹を殺さなくっちゃならない。糸公は尊《たっと》い女だ、誠のある女だ。正直だよ、君のためなら何でもするよ。殺すのはもったいない」
宗近君は骨張った甲野さんの肩を椅子の上で振り動かした。
十八
小夜子《さよこ》は婆さんから菓子の袋を受取った。底を立てて出雲焼《いずもやき》の皿に移すと、真中にある青い鳳凰《ほうおう》の模様が和製のビスケットで隠れた。黄色な縁《ふち》はだいぶ残っている。揃《そろ》えて渡す二本の竹箸《たけばし》を、落さぬように茶の間から座敷へ持って出た。座敷には浅井君が先生を相手に、京都以来の旧歓を暖めている。時は朝である。日影はじりじりと椽《えん》に逼《せま》ってくる。
「御嬢さんは、東京を御存じでしたな」と問いかけた。
菓子皿を主客の間に置いて、やさしい肩を後《うしろ》へ引くついでに、
「ええ」と小声に答えて、立ち兼ねた。
「これは東京で育ったのだよ」と先生が足らぬところを補ってくれる。
「そうでしたな。――大変大きくなりましたな」と突然別問題に飛び移った。
小夜子は淋しい笑顔を俯向《うつむ》けて、今度は答さえも控えた。浅井君は遠慮のない顔をして小夜子を眺《なが》めている。これからこの女の結婚問題を壊すんだなと思いながら平気に眺めている。浅井君の結婚問題に関する意見は大道易者のごとく容易である。女の未来や生涯《しょうがい》の幸福についてはあまり同情を表《ひょう》しておらん。
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