水準1−86−14]た何ですか」と宗近君は阿爺《おやじ》の前で変則の胡坐《あぐら》をかいている。
「アハハハハそれじゃ叡山《えいざん》へ何しに登ったか分からない」
「そんなものは通り路に見当らなかったようだね、甲野《こうの》さん」
甲野さんは茶碗を前に、くすんだ万筋の前を合して、黒い羽織の襟《えり》を正しく坐っている。甲野さんが問い懸《か》けられた時、※[#「單+展」、第4水準2−4−51]然《にこやか》な糸子の顔は揺《うご》いた。
「相輪※[#「木+棠」、第3水準1−86−14]はなかったようだね」と甲野さんは手を膝《ひざ》の上に置いたままである。
「通り路にないって……まあどこから登ったか知らないが――吉田かい」
「甲野さん、あれは何と云う所かね。僕らの登ったのは」
「何と云う所か知ら」
「阿爺《おとっさん》何でも一本橋を渡ったんですよ」
「一本橋を?」
「ええ、――一本橋を渡ったな、君、――もう少し行くと若狭《わかさ》の国へ出る所だそうです」
「そう早く若狭へ出るものか」と甲野さんはたちまち前言を取り消した。
「だって君が、そう云ったじゃないか」
「それは冗談《じょうだん》さ」
「アハハハハ若狭へ出ちゃ大変だ」と老人は大いに愉快そうである。糸子も丸顔に二重瞼《ふたえまぶた》の波を寄せた。
「一体御前方はただ歩行《ある》くばかりで飛脚《ひきゃく》同然だからいけない。――叡山には東塔《とうとう》、西塔《さいとう》、横川《よかわ》とあって、その三ヵ所を毎日往来してそれを修業にしている人もあるくらい広い所だ。ただ登って下りるだけならどこの山へ登ったって同じ事じゃないか」
「なに、ただの山のつもりで登ったんです」
「アハハハそれじゃ足の裏へ豆を出しに登ったようなものだ」
「豆はたしかです。豆はそっちの受持です」と笑ながら甲野さんの方を見る。哲学者もむずかしい顔ばかりはしておられぬ。灯火《ともしび》は明かに揺れる。糸子は袖《そで》を口へ当てて、崩《くず》しかかった笑顔の収まり際《ぎわ》に頭《つむり》を上げながら、眸《ひとみ》を豆の受持ち手の方へ動かした。眼を動かさんとするものは、まず顔を動かす。火事場に泥棒を働らくの格である。家庭的の女にもこのくらいな作略《さりゃく》はある。素知らぬ顔の甲野さんは、すぐ問題を呈出した。
「御叔父《おじ》さん、東塔とか西塔とか云うのは何の
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