、いじっていた事があるもんだから……」
「それで」
「それでね――この時計と藤尾とは縁の深い時計だがこれを御前にやろう。しかし今はやらない。卒業したらやる。しかし藤尾が欲しがって繰《く》っ着《つ》いて行くかも知れないが、それでも好いかって、冗談《じょうだん》半分に皆《みんな》の前で一におっしゃったんだよ」
「それを今だに謎《なぞ》だと思ってるんですか」
「宗近の阿爺《おとっさん》の口占《くちうら》ではどうもそうらしいよ」
「馬鹿らしい」
藤尾は鋭どい一句を長火鉢の角《かど》に敲《たた》きつけた。反響はすぐ起る。
「馬鹿らしいのさ」
「あの時計は私が貰いますよ」
「まだ御前の部屋にあるかい」
「文庫のなかに、ちゃんとしまってあります」
「そう。そんなに欲しいのかい。だって御前には持てないじゃないか」
「いいから下さい」
鎖の先に燃える柘榴石《ガーネット》は、蒔絵《まきえ》の蘆雁《ろがん》を高く置いた手文庫の底から、怪しき光りを放って藤尾を招く。藤尾はすうと立った。朧《おぼろ》とも化けぬ浅葱桜《あさぎざくら》が、暮近く消えて行くべき昼の命を、今|少時《しばし》と護《まも》る椽《えん》に、抜け出した高い姿が、振り向きながら、瘠面《やさおもて》の影になった半面を、障子のうちに傾けて
「あの時計は小野さんに上げても好いでしょうね」
と云う。障子《しょうじ》のうちの返事は聞えず。――春は母と子に暮れた。
同時に豊かな灯《ひ》が宗近家の座敷に点《とも》る。静かなる夜を陽に返す洋灯《ランプ》の笠に白き光りをゆかしく罩《こ》めて、唐草《からくさ》を一面に高く敲《たた》き出した白銅の油壺《あぶらつぼ》が晴がましくも宵《よい》に曇らぬ色を誇る。灯火《ともしび》の照らす限りは顔ごとに賑《にぎ》やかである。
「アハハハハ」と云う声がまず起る。この灯火《ともしび》の周囲《まわり》に起るすべての談話はアハハハハをもって始まるを恰好《かっこう》と思う。
「それじゃ相輪※[#「木+棠」、第3水準1−86−14]《そうりんとう》も見ないだろう」と大きな声を出す。声の主は老人である。色の好い頬の肉が双方から垂れ余って、抑えられた顎《あご》はやむを得ず二重《ふたえ》に折れている。頭はだいぶ禿《は》げかかった。これを時々|撫《な》でる。宗近の父は頭を撫で禿がしてしまった。
「相輪※[#「木+棠」、第3
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