》さんにも分らないね」
雲井の煙は会釈《えしゃく》なく、骨の高い鼻の穴から吹き出す。
「帰って来ても同《おんな》じ事ですね」
「同じ事さ。生涯《しょうがい》あれなんだよ」
御母《おっか》さんの疳《かん》の筋は裏から表へ浮き上がって来た。
「家《うち》を襲《つ》ぐのがあんなに厭《いや》なんでしょうか」
「なあに、口だけさ。それだから悪《にく》いんだよ。あんな事を云って私達《わたしたち》に当付《あてつ》けるつもりなんだから……本当に財産も何も入らないなら自分で何かしたら、善いじゃないか。毎日毎日ぐずぐずして、卒業してから今日《きょう》までもう二年にもなるのに。いくら哲学だって自分一人ぐらいどうにかなるにきまっていらあね。煮《に》え切らないっちゃありゃしない。彼人《あのひと》の顔を見るたんびに阿母《おっかさん》は疳癪《かんしゃく》が起ってね。……」
「遠廻しに云う事はちっとも通じないようね」
「なに、通じても、不知《しら》を切ってるんだよ」
「憎らしいわね」
「本当に。彼人がどうかしてくれないうちは、御前の方をどうにもする事が出来ない。……」
藤尾は返事を控えた。恋はすべての罪悪を孕《はら》む。返事を控えたうちには、あらゆるものを犠牲に供するの決心がある。母は続ける。
「御前も今年で二十四じゃないか。二十四になって片付かないものが滅多《めった》にあるものかね。――それを、嫁にやろうかと相談すれば、御廃《およ》しなさい、阿母《おっか》さんの世話は藤尾にさせたいからと云うし、そんなら独立するだけの仕事でもするかと思えば、毎日部屋のなかへ閉《と》じ籠《こも》って寝転んでるしさ。――そうして他人《ひと》には財産を藤尾にやって自分は流浪《るろう》するつもりだなんて云うんだよ。さもこっちが邪魔にして追い出しにでもかかってるようで見っともないじゃないか」
「どこへ行って、そんな事を云ったんです」
「宗近《むねちか》の阿爺《おとっさん》の所へ行った時、そう云ったとさ」
「よっぽど男らしくない性質《たち》ですね。それより早く糸子《いとこ》さんでも貰《もら》ってしまったら好いでしょうに」
「全体貰う気があるのかね」
「兄さんの料簡《りょうけん》はとても分りませんわ。しかし糸子さんは兄さんの所へ来たがってるんですよ」
母は鳴る鉄瓶《てつびん》を卸《おろ》して、炭取を取り上げた。隙間《す
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