いのよ。あら頭にはねが上っててよ。大変乱暴に御歩行《おある》きなすったのね」
「日和下駄《ひよりげた》ですもの、よほど上ったでしょう」と背中《せなか》を向いて見せる。御母さんと露子は同時に「おやまあ!」と申し合せたような驚き方をする。
羽織を干して貰って、足駄を借りて奥に寝ている御父《おと》っさんには挨拶もしないで門を出る。うららかな上天気で、しかも日曜である。少々ばつは悪かったようなものの昨夜《ゆうべ》の心配は紅炉上《こうろじょう》の雪と消えて、余が前途には柳、桜の春が簇《むら》がるばかり嬉しい。神楽坂《かぐらざか》まで来て床屋へ這入る。未来の細君の歓心を得んがためだと云われても構わない。実際余は何事によらず露子の好《す》くようにしたいと思っている。
「旦那|髯《ひげ》は残しましょうか」と白服を着た職人が聞く。髯を剃《そ》るといいと露子が云ったのだが全体の髯の事か顋髯《あごひげ》だけかわからない。まあ鼻の下だけは残す事にしようと一人できめる。職人が残しましょうかと念を押すくらいだから、残したって余り目立つほどのものでもないにはきまっている。
「源さん、世の中にゃ随分馬鹿な奴がいるも
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