いたん》の至《いたり》に堪《た》えんくらいのものでげす。何も日本固有の奇術が現に伝《つたわ》っているのに、一も西洋二も西洋と騒がんでもの事でげしょう。今の日本人はちと狸を軽蔑《けいべつ》し過ぎるように思われやすからちょっと全国の狸共に代って拙から諸君に反省を希望して置きやしょう」
「いやに理窟《りくつ》を云う狸だぜ」と源さんが云うと、松さんは本を伏せて「全く狸の言う通《とおり》だよ、昔だって今だって、こっちがしっかりしていりゃ婆化されるなんて事はねえんだからな」としきりに狸の議論を弁護している。して見ると昨夜《ゆうべ》は全く狸に致された訳《わけ》かなと、一人で愛想《あいそ》をつかしながら床屋を出る。
台町の吾家《わがや》に着いたのは十時頃であったろう。門前に黒塗の車が待っていて、狭い格子《こうし》の隙《すき》から女の笑い声が洩《も》れる。ベルを鳴らして沓脱《くつぬぎ》に這入る途端「きっと帰っていらっしゃったんだよ」と云う声がして障子がすうと明くと、露子が温かい春のような顔をして余を迎える。
「あなた来ていたのですか」
「ええ、お帰りになってから、考えたら何だか様子が変だったから、すぐ車で来て見たの、そうして昨夕の事を、みんな婆やから聞いてよ」と婆さんを見て笑い崩れる。婆さんも嬉しそうに笑う。露子の銀のような笑い声と、婆さんの真鍮《しんちゅう》のような笑い声と、余の銅のような笑い声が調和して天下の春を七円五十銭の借家《しゃくや》に集めたほど陽気である。いかに源兵衛村の狸でもこのくらい大きな声は出せまいと思うくらいである。
気のせいかその後《ご》露子は以前よりも一層余を愛するような素振《そぶり》に見えた。津田君に逢った時、当夜の景況を残りなく話したらそれはいい材料だ僕の著書中に入れさせてくれろと云った。文学士津田|真方《まかた》著幽霊論の七二頁にK君の例として載《の》っているのは余の事である。
底本:「夏目漱石全集2」ちくま文庫、筑摩書房
1987(昭和62)年10月27日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版夏目漱石全集」筑摩書房
1971(昭和46)年4月〜1972(昭和47)年1月
入力:柴田卓治
校正:LUNA CAT
2000年8月31日公開
2004年2月26日修正
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