んだねえ」と余の顋《あご》をつまんで髪剃《かみそり》を逆《ぎゃく》に持ちながらちょっと火鉢の方を見る。
 源さんは火鉢の傍《そば》に陣取って将棊盤《しょうぎばん》の上で金銀二枚をしきりにパチつかせていたが「本当にさ、幽霊だの亡者《もうじゃ》だのって、そりゃ御前、昔《むか》しの事だあな。電気灯のつく今日《こんにち》そんな箆棒《べらぼう》な話しがある訳がねえからな」と王様の肩へ飛車を載せて見る。「おい由公御前こうやって駒を十枚積んで見ねえか、積めたら安宅鮓《あたかずし》を十銭|奢《おご》ってやるぜ」
 一本歯の高足駄を穿《は》いた下剃《したぞり》の小僧が「鮓《すし》じゃいやだ、幽霊を見せてくれたら、積んで見せらあ」と洗濯したてのタウエルを畳みながら笑っている。
「幽霊も由公にまで馬鹿にされるくらいだから幅は利《き》かない訳さね」と余の揉《も》み上げを米噛《こめか》みのあたりからぞきりと切り落す。
「あんまり短かかあないか」
「近頃はみんなこのくらいです。揉み上げの長いのはにやけ[#「にやけ」に傍点]てておかしいもんです。――なあに、みんな神経さ。自分の心に恐《こわ》いと思うから自然幽霊だって増長して出たくならあね」と刃《は》についた毛を人さし指と拇指《おやゆび》で拭《ぬぐ》いながらまた源さんに話しかける。
「全く神経だ」と源さんが山桜の煙を口から吹き出しながら賛成する。
「神経って者は源さんどこにあるんだろう」と由公はランプのホヤを拭《ふ》きながら真面目に質問する。
「神経か、神経は御めえ方々にあらあな」と源さんの答弁は少々|漠然《ばくぜん》としている。
 白暖簾《しろのれん》の懸《かか》った座敷の入口に腰を掛けて、さっきから手垢《てあか》のついた薄っぺらな本を見ていた松さんが急に大きな声を出して面白い事がかいてあらあ、よっぽど面白いと一人で笑い出す。
「何だい小説か、食道楽《くいどうらく》じゃねえか」と源さんが聞くと松さんはそうよそうかも知れねえと上表紙《うわびょうし》を見る。標題には浮世心理講義録《うきよしんりこうぎろく》有耶無耶道人著《うやむやどうじんちょ》とかいてある。
「何だか長い名だ、とにかく食道楽じゃねえ。鎌《かま》さん一体これゃ何の本だい」と余の耳に髪剃《かみそり》を入れてぐるぐる廻転させている職人に聞く。
「何だか、訳の分らないような、とぼけた事が書いてある本だがね」
「一人で笑っていねえで少し読んで聞かせねえ」と源さんは松さんに請求する。松さんは大きな声で一節を読み上げる。
「狸《たぬき》が人を婆化《ばか》すと云いやすけれど、何で狸が婆化しやしょう。ありゃみんな催眠術《さいみんじゅつ》でげす……」
「なるほど妙な本だね」と源さんは煙《けむ》に捲《ま》かれている。
「拙《せつ》が一|返《ぺん》古榎《ふるえのき》になった事がありやす、ところへ源兵衛村の作蔵《さくぞう》と云う若い衆《しゅ》が首を縊《くく》りに来やした……」
「何だい狸が何か云ってるのか」
「どうもそうらしいね」
「それじゃ狸のこせえた本じゃねえか――人を馬鹿にしやがる――それから?」
「拙が腕をニューと出している所へ古褌《ふるふんどし》を懸《か》けやした――随分|臭《くそ》うげしたよ――……」
「狸の癖にいやに贅沢《ぜいたく》を云うぜ」
「肥桶《こいたご》を台にしてぶらりと下がる途端拙はわざと腕をぐにゃりと卸《お》ろしてやりやしたので作蔵君は首を縊り損《そこな》ってまごまごしておりやす。ここだと思いやしたから急に榎《えのき》の姿を隠してアハハハハと源兵衛村中へ響くほどな大きな声で笑ったやりやした。すると作蔵君はよほど仰天《ぎょうてん》したと見えやして助けてくれ、助けてくれと褌を置去りにして一生懸命に逃げ出しやした……」
「こいつあ旨《うめ》え、しかし狸が作蔵の褌をとって何にするだろう」
「大方|睾丸《きんたま》でもつつむ気だろう」
 アハハハハと皆《みんな》一度に笑う。余も吹き出しそうになったので職人はちょっと髪剃を顔からはずす。
「面白《おもしれ》え、あとを読みねえ」と源さん大《おおい》に乗気になる。
「俗人は拙が作蔵を婆化したように云う奴でげすが、そりゃちと無理でげしょう。作蔵君は婆化されよう、婆化されようとして源兵衛村をのそのそしているのでげす。その婆化されようと云う作蔵君の御注文に応じて拙《せつ》がちょっと婆化《ばか》して上げたまでの事でげす。すべて狸一派のやり口は今日《こんにち》開業医の用いておりやす催眠術でげして、昔からこの手でだいぶ大方《たいほう》の諸君子をごまかしたものでげす。西洋の狸から直伝《じきでん》に輸入致した術を催眠法とか唱《とな》え、これを応用する連中を先生などと崇《あが》めるのは全く西洋心酔の結果で拙などはひそかに慨嘆《が
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