う。
「僕は廃《よ》してもいいが婆さんが承知しないから困る。そんな事は一々聞かないでもいいから好加減《いいかげん》にしてくれと云うと、どう致しまして、奥様の入《い》らっしゃらない御家《おうち》で、御台所を預かっております以上は一銭一厘でも間違いがあってはなりません、てって頑《がん》として主人の云う事を聞かないんだからね」
「それじゃあ、ただうんうん云って聞いてる振《ふり》をしていりゃよかろう」津田君は外部の刺激のいかんに関せず心は自由に働き得ると考えているらしい。心理学者にも似合しからぬ事だ。
「しかしそれだけじゃないのだからな。精細なる会計報告が済むと、今度は翌日《あす》の御菜《おかず》について綿密な指揮を仰ぐのだから弱る」
「見計《みはか》らって調理《こしら》えろと云えば好いじゃないか」
「ところが当人見計らうだけに、御菜に関して明瞭なる観念がないのだから仕方がない」
「それじゃ君が云い付けるさ。御菜のプログラムぐらい訳《わけ》ないじゃないか」
「それが容易《たやす》く出来るくらいなら苦にゃならないさ。僕だって御菜上の智識はすこぶる乏《とぼ》しいやね。明日《あした》の御みおつけ[#「みおつけ」に傍点]の実《み》は何に致しましょうとくると、最初から即答は出来ない男なんだから……」
「何だい御みおつけ[#「みおつけ」に傍点]と云うのは」
「味噌汁の事さ。東京の婆さんだから、東京流に御みおつけ[#「みおつけ」に傍点]と云うのだ。まずその汁の実を何に致しましょうと聞かれると、実になり得べき者を秩序正しく並べた上で選択をしなければならんだろう。一々考え出すのが第一の困難で、考え出した品物について取捨をするのが第二の困難だ」
「そんな困難をして飯を食ってるのは情ない訳だ、君が特別に数奇《すき》なものが無いから困難なんだよ。二個以上の物体を同等の程度で好悪《こうお》するときは決断力の上に遅鈍なる影響を与えるのが原則だ」とまた分り切った事をわざわざむずかしくしてしまう。
「味噌汁の実まで相談するかと思うと、妙なところへ干渉するよ」
「へえ、やはり食物上にかね」
「うん、毎朝梅干に白砂糖を懸《か》けて来て是非《ぜひ》一つ食えッて云うんだがね。これを食わないと婆さんすこぶる御機嫌が悪いのさ」
「食えばどうかするのかい」
「何でも厄病除《やくびょうよけ》のまじないだそうだ。そうして婆
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