石川の奥まで帰るのだから研究は愚か、自分が幽霊になりそうなくらいさ、考えると心細くなってしまう」
「そうだったね、つい忘れていた。どうだい新世帯《しんじょたい》の味は。一戸を構えると自《おのず》から主人らしい心持がするかね」と津田君は幽霊を研究するだけあって心理作用に立ち入った質問をする。
「あんまり主人らしい心持もしないさ。やっぱり下宿の方が気楽でいいようだ。あれでも万事整頓していたら旦那《だんな》の心持と云う特別な心持になれるかも知れんが、何しろ真鍮《しんちゅう》の薬缶《やかん》で湯を沸《わ》かしたり、ブリッキの金盥《かなだらい》で顔を洗ってる内は主人らしくないからな」と実際のところを白状する。
「それでも主人さ。これが俺のうちだと思えば何となく愉快だろう。所有と云う事と愛惜《あいせき》という事は大抵の場合において伴なうのが原則だから」と津田君は心理学的に人の心を説明してくれる。学者と云うものは頼みもせぬ事を一々説明してくれる[#「くれる」に傍点]者である。
「俺の家《うち》だと思えばどうか知らんが、てんで俺の家《うち》だと思いたくないんだからね。そりゃ名前だけは主人に違いないさ。だから門口《かどぐち》にも僕の名刺だけは張り付けて置いたがね。七円五十銭の家賃の主人なんざあ、主人にしたところが見事な主人じゃない。主人中の属官なるものだあね。主人になるなら勅任主人か少なくとも奏任主人にならなくっちゃ愉快はないさ。ただ下宿の時分より面倒が殖《ふ》えるばかりだ」と深くも考えずに浮気《うわき》の不平だけを発表して相手の気色《けしき》を窺《うかが》う。向うが少しでも同意したら、すぐ不平の後陣《ごじん》を繰《く》り出すつもりである。
「なるほど真理はその辺にあるかも知れん。下宿を続けている僕と、新たに一戸を構えた君とは自から立脚地が違うからな」と言語はすこぶるむずかしいがとにかく余の説に賛成だけはしてくれる。この模様ならもう少し不平を陳列しても差《さ》し支《つかえ》はない。
「まずうちへ帰ると婆さんが横《よこ》綴《と》じの帳面を持って僕の前へ出てくる。今日《こんにち》は御味噌を三銭、大根を二本、鶉豆《うずらまめ》を一銭五厘買いましたと精密なる報告をするんだね。厄介きわまるのさ」
「厄介きわまるなら廃《よ》せばいいじゃないか」と津田君は下宿人だけあって無雑作《むぞうさ》な事を言
前へ
次へ
全26ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング