さんの顔は土のようである。何か云おうとするが息がはずんで云えない。巡査は余の方を見て返答を促《うなが》す。余は化石のごとく茫然《ぼうぜん》と立っている。
「いやこれは夜中《やちゅう》はなはだ失礼で……実は近頃この界隈《かいわい》が非常に物騒なので、警察でも非常に厳重に警戒をしますので――ちょうど御門が開いておって、何か出て行ったような按排《あんばい》でしたから、もしやと思ってちょっと御注意をしたのですが……」
余はようやくほっと息をつく。咽喉《のど》に痞《つか》えている鉛の丸《たま》が下りたような気持ちがする。
「これは御親切に、どうも、――いえ別に何も盗難に罹《かか》った覚はないようです」
「それなら宜《よろ》しゅう御座います。毎晩犬が吠えておやかましいでしょう。どう云うものか賊がこの辺《へん》ばかり徘徊《はいかい》しますんで」
「どうも御苦労様」と景気よく答えたのは遠吠が泥棒のためであるとも解釈が出来るからである。巡査は帰る。余は夜が明け次第四谷に行くつもりで、六時が鳴るまでまんじりともせず待ち明した。
雨はようやく上ったが道は非常に悪い。足駄《あしだ》をと云うと歯入屋へ持って行ったぎり、つい取ってくるのを忘れたと云う。靴は昨夜《ゆうべ》の雨でとうてい穿《は》けそうにない。構うものかと薩摩下駄《さつまげた》を引掛けて全速力で四谷坂町まで馳《か》けつける。門は開《あ》いているが玄関はまだ戸閉りがしてある。書生はまだ起きんのかしらと勝手口へ廻る。清と云う下総《しもうさ》生れの頬《ほっ》ペタの赤い下女が俎《まないた》の上で糠味噌《ぬかみそ》から出し立ての細根大根《ほそねだいこん》を切っている。「御早よう、何はどうだ」と聞くと驚いた顔をして、襷《たすき》を半分はずしながら「へえ」と云う。へえでは埓《らち》があかん。構わず飛び上って、茶の間へつかつか這入り込む。見ると御母《おっか》さんが、今起き立の顔をして叮嚀《ていねい》に如鱗木《じょりんもく》の長火鉢を拭《ふ》いている。
「あら靖雄《やすお》さん!」と布巾《ふきん》を持ったままあっけに取られたと云う風をする。あら靖雄さん[#「あら靖雄さん」に傍点]でも埓《らち》があかん。
「どうです、よほど悪いですか」と口早に聞く。
犬の遠吠が泥棒のせいときまるくらいなら、ことによると病気も癒《なお》っているかも知れない。癒って
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