枕元で例の通り他愛《たわい》もない話をしておった時、病人が袖《そで》口の綻《ほころ》びから綿が出懸《でかか》っているのを気にして、よせと云うのを無理に蒲団の上へ起き直って縫ってくれた事をすぐ聯想《れんそう》する。あの時は顔色が少し悪いばかりで笑い声さえ常とは変らなかったのに――当人ももうだいぶ好《よ》くなったから明日《あした》あたりから床《とこ》を上げましょうとさえ言ったのに――今、眼の前に露子の姿を浮べて見ると――浮べて見るのではない、自然に浮んで来るのだが――頭へ氷嚢《ひょうのう》を載《の》せて、長い髪を半分|濡《ぬ》らして、うんうん呻《うめ》きながら、枕の上へのり出してくる。――いよいよ肺炎かしらと思う。しかし肺炎にでもなったら何とか知らせが来るはずだ。使も手紙も来ない所をもって見るとやっぱり病気は全快したに相違ない、大丈夫だ、と断定して眠ろうとする。合わす瞳《ひとみ》の底に露子の青白い肉の落ちた頬と、窪《くぼ》んで硝子張《ガラスばり》のように凄《すご》い眼がありありと写る。どうも病気は癒《なお》っておらぬらしい。しらせはまだ来ぬが、来ぬと云う事が安心にはならん。今に来るかも知れん、どうせ来るなら早く来れば好《よ》い、来ないか知らんと寝返りを打つ。寒いとは云え四月と云う時節に、厚夜着《あつよぎ》を二枚も重ねて掛けているから、ただでさえ寝苦しいほど暑い訳であるが、手足と胸の中《うち》は全く血の通わぬように重く冷たい。手で身のうちを撫《な》でて見ると膏《あぶら》と汗で湿《しめ》っている。皮膚の上に冷たい指が触《さわ》るのが、青大将にでも這《は》われるように厭な気持である。ことによると今夜のうちに使でも来るかも知れん。
突然何者か表の雨戸を破《わ》れるほど叩《たた》く。そら来たと心臓が飛び上って肋《あばら》の四枚目を蹴《け》る。何か云うようだが叩く音と共に耳を襲うので、よく聞き取れぬ。「婆さん、何か来たぜ」と云う声の下から「旦那様、何か参りました」と答える。余と婆さんは同時に表口へ出て雨戸を開ける。――巡査が赤い火を持って立っている。
「今しがた何かありはしませんか」と巡査は不審な顔をして、挨拶もせぬ先から突然尋ねる。余と婆さんは云い合したように顔を見合せる。両方共何とも答をしない。
「実は今ここを巡行するとね、何だか黒い影が御門から出て行きましたから……」
婆
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