教育と文芸
――明治四十四年六月十八日長野県会議事院において――
夏目漱石
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)凡《およ》そ
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)出|懸《か》けて
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から2字上げ]
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私は思いがけなく前から当地の教育会の御招待を受けました。凡《およ》そ一カ月前に御通知がありましたが、私は、その時になって見なければ、出られるか出られぬか分らぬために、直《すぐ》にお答をすることが出来ませんでした。しかし、御懇切《ごこんせつ》の御招待ですから義理にもと思いまして体だけ出|懸《か》けて参りました。別に面白いお話も出来ません、前《ぜん》申した通り体だけ義理にもと出かけたわけであります。
私のやる演題はこういう教育会の会場での経験がないのでこまりました。が、名が教育会であるし、引受ける私は文学に関係あるものであるから、教育と文芸という事にするが能《よ》いと思いまして、こういう題にしました。この教育と文芸というのは、諸君が主であるからまげて教育をさきとしたのであります。
よく誤解される事がありますので、そんな事があっては済みませんから、ちょっと注意を申述《もうしの》べて置きます。教育といえばおもに学校教育であるように思われますが、今私の教育というのは社会教育|及《および》家庭教育までも含んだものであります。
また私のここにいわゆる文芸は文学である、日本における文学といえば先《まず》小説|戯曲《ぎきょく》であると思います。順序は矛盾しましたが、広義の教育、殊に、徳育とそれから文学の方面殊に、小説戯曲との関係連絡の状態についてお話致します。日本における教育を昔と今とに区別して相《あい》比較するに、昔の教育は、一種の理想を立て、その理想を是非実現しようとする教育である。しこうして、その理想なるものが、忠とか孝とかいう、一種抽象した概念を直《ただ》ちに実際として、即ち、この世にあり得るものとして、それを理想とさせた、即ち孔子を本家《ほんけ》として、全然その通りにならなくともとにかくそれを目あてとして行くのであります。
なお委《くわ》しくいいますと聖人といえば孔子、仏《ほとけ》といえば釈迦《しゃか》、節婦《せっぷ》貞女忠臣孝子は、一種の理想の固《かた》まりで、世の中にあり得ないほどの、理想を以て進まねばならなかった。親が、子供のいう事を聞かぬ時は、二十四孝《にじゅうしこう》を引き出して子供を戒《いまし》めると、子供は閉口《へいこう》するというような風であります。それで昔は上の方には束縛がなくて、上の下に対する束縛がある、これは能《よ》くない、親が子に対する理想はあるが子が親に対する理想はなかった。妻が夫に臣が君に対する理想はなかったのです。即ち忠臣貞女とかいうが如きものを完全なものとして孝子は親の事、忠臣は君の事、貞女は夫の事をばかり考えていた。誠にえらいものである。その原因は科学的精神が乏しかったためで、その理想を批評せず吟味《ぎんみ》せずにこれを行《おこな》って行《い》ったというのである。また昔は階級制度が厳しいために過去の英雄豪傑は非常にえらい人のように見えて、自分より上の人は非常にえらくかつ古人が世の中に存在し得るという信仰があったため、また、一《ひとつ》は所が隔《へだ》たっていて目《ま》のあたり見なれぬために遠隔の地の人のことは非常に誇大《こだい》して考えられたものである、今は交通が便利であるためにそんな事がない、私などもあまり飛び出さないと大家《たいか》と見られるであろう。
さて当時は理想を目前に置き、自分の理想を実現しようと一種の感激を前に置いてやるから、一種の感激教育となりまして、知の方は主でなく、インスピレーションともいうような情緒《じょうしょ》の教育でありました。なんでも出来ると思う、精神一到《せいしんいっとう》何事《なにごとか》不成《ならざらん》というような事を、事実と思っている。意気天を衝《つ》く。怒髪《どはつ》天をつく。炳《へい》として日月《じつげつ》云々《うんぬん》という如き、こういう詞《ことば》を古人は盛《さかん》に用いた。感激的というのはこんな有様《ありさま》で情緒的教育でありましたから一般の人の生活状態も、エモーショナルで努力主義でありました。そういう教育を受ける者は、前のような有様でありますが社会は如何《どう》かというと、非常に厳格で少しのあやまちも許さぬというようになり、少しく申訳がなければ坊主《ぼうず》となり切腹するという感激主義であった、即ち社会の本能からそういうことになったもので、大体よりこれが日本の主眼とする所でありました、それが明治になって非常に異《ことな》って
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