きました。
 四十余年間の歴史を見ると、昔は理想から出立《しゅったつ》した教育が、今は事実から出発する教育に変化しつつあるのであります、事実から出発する方は、理想はあるけれども実行は出来ぬ、概念的の精神に依って人は成立する者でない、人間は表裏《ひょうり》のあるものであるとして、社会も己《おのれ》も教育するのであります。昔は公《こう》でも私《し》でも何でも皆孝で押し通したものであるが今は一面に孝があれば他面に不孝があるものとしてやって行く。即ち昔は一元的、今は二元的である、すべて孝で貫き忠で貫く事はできぬ。これは想像の結果である。昔の感激主義に対して今の教育はそれを失わする教育である、西洋では迷《まよい》より覚めるという、日本では意味が違うが、まあディスイリュージョン、さめる、というのであります。なぜ昔はそんな風であったか。話は余談に入るが、独逸《ドイツ》の哲学者が概念を作って定義を作ったのであります。しかし巡査の概念として白い服を着てサーベルをさしているときめると一面には巡査が和服で兵児帯《へこおび》のこともあるから概念できめてしまうと窮屈になる。定義できめてしまっては世の中の事がわからなくなると仏国《ふつこく》の学者はいうている。
 物は常に変化して行く、世の中の事は常に変化する、それで孔子という概念をきめてこれを理想としてやって来たものが後にこれが間違であったということを悟《さと》るというような場合も出来て来る。こういう変化はなぜ起ったか、これは物理化学|博物《はくぶつ》などの科学が進歩して物をよく見て、研究して見る。こういう科学的精神を、社会にも応用して来る。また階級もなくなる交通も便利になる、こういう色々な事情からついに今日の如き思想に変化して来たのであります。
 道徳上の事で、古人の少しもゆるさなかったことを、今の人はよほど許容する、我儘《わがまま》をも許す、社会がゆるやかになる、畢竟《ひっきょう》道徳的価値の変化という事が出来て来た。即ち自分というものを発揮してそれで短所欠点|悉《ことごと》くあらわす事をなんとも思わない。そして無理の事がなくなる。昔は負惜《まけおし》みをしたものだ、残酷な事も忍んだものだ。今はそれが段々なくなって、自分の弱点をそれほど恐れずに世の中に出す事を何とも思わない。それで古《いにしえ》の人の弊《へい》はどんな事かというと、多少|偽《いつわり》の点がありました。今の人は正直で自分を偽らずに現わす、こういう風で寛容的精神が発達して来た。しこうして社会もまたこれを容《い》れて来たのであります。昔は一遍《いっぺん》社会から葬《ほうむ》られた者は、容易に恢復する事が出来なかったが、今日では人の噂も七十五日という如く寛大となったのであります。社会の制裁が弛《ゆる》んだというかも知れませんが一方からいいましたならば、事実にそういう欠点のあり得る事を二元的に認めて、これに寛容的の態度を示したのであります。畢竟《ひっきょう》無理がなくなり、概念の束縛がなくなり、事実が現われたのであります。昔スパルタの教育に、狐を隠してその狐が自分の腸《はらわた》をえぐり出しても、なお黙っていたということがあるが、今はそういう痩我慢《やせがまん》はなくなったのである。現今の教育の結果は自分の特点をも露骨に正直に人の前に現わす事を非常なる恥辱《ちじょく》とはしないのであります。これは事実という第一の物が一元的でないという事を予《あらかじ》め許すからである。私の家へよく若い者が訪ねて参りますがその学生が帰って手紙を寄こす。その中にあなたの家を訪ねた時に思いきって這入《はい》ろうかイヤ這入るまいかと暫く躊躇《ちゅうちょ》した、なるべくならお留守であればよい、更に逢わぬといってくれれば可《よ》いと思ったというような露骨な事が書いてある。昔私らの書生の頃には、人を訪問していなければ可いがと思うてもそういう事をその人の前に告白するような正直な実際的な事はしなかったものである。痩我慢をして実は堂々たるものの如く装《よそお》って人の前にもこれを吹聴《ふいちょう》したのである。感激的教育概念に囚《とらわ》れたる薫化《くんか》がこういう不正直な痩我慢的な人間を作り出したのである。
 さて一方文学を攷察《こうさつ》して見まするにこれを大別《たいべつ》してローマンチシズム、ナチュラリズムの二種類とすることが出来る、前者は適当の訳字がないために私が作って浪漫主義として置きましたが、後者のナチュラリズムは自然派と称しております。この両者を前に申述べた教育と対照いたしますと、ローマンチシズムと、昔の徳育即ち概念に囚れたる教育と、特徴を同《おなじゅ》うし、ナチュラリズムと現今の事実を主とする教育と、相|通《かよ》うのであります。以前文芸は道徳を超絶《ちょう
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