る主人も言葉をかける気色《けしき》がない。車夫はただ細長い通りをどこまでもかんかららんと北へ走る。なるほど遠い。遠いほど風に当らねばならぬ。馳けるほど顫《ふる》えねばならぬ。余の膝掛《ひざかけ》と洋傘《ようがさ》とは余が汽車から振り落されたとき居士が拾ってしまった。洋傘は拾われても雨が降らねばいらぬ。この寒いのに膝掛を拾われては東京を出るとき二十二円五十銭を奮発した甲斐《かい》がない。
 子規と来たときはかように寒くはなかった。子規はセル、余はフランネルの制服を着て得意に人通りの多い所を歩行《ある》いた事を記憶している。その時子規はどこからか夏蜜柑《なつみかん》を買うて来て、これを一つ食えと云って余に渡した。余は夏蜜柑《なつみかん》の皮を剥《む》いて、一房《ひとふさ》ごとに裂いては噛《か》み、裂いては噛んで、あてどもなくさまようていると、いつの間《ま》にやら幅一間ぐらいの小路《しょうじ》に出た。この小路の左右に並ぶ家には門並《かどなみ》方一尺ばかりの穴を戸にあけてある。そうしてその穴の中から、もしもしと云う声がする。始めは偶然だと思うていたが行くほどに、穴のあるほどに、申し合せたように
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