与三郎の――そう、もっともこれは純然たる筋じゃないが、まあ残酷なところがゆすりの原因になっているでしょう。
 生涯《しょうがい》の大勢は構わないその日その日を面白く暮して行けば好いという人があるように、芝居も大体の構造なんか眼中におく必要がない、局部局部を断片的に賞翫《しょうがん》すればよいという説――二宮君のような説ですが、まあその説に同意してみたらどんなものでしょう。
 それでも賞翫はできますが、それを賞翫するに、局部の内容を賞翫するのと、その内容を発現するために用うる役者の芸を賞翫するのと、ほとんど内容を離れた、内容の発現には比較的効能のない役者の芸を賞翫するのと三つあるようですね。
 こうなっても芝居の好な人は、やっぱり内容に重きをおいていないようじゃありませんか。お富が海へ飛び込むところなぞは内容として、私には見るに堪《た》えない。演《や》り方が旨《うま》いとか下手《まず》いとか云う芸術上の鑑賞の余地がないくらい厭《いや》です。中村不折が隣りにいて、あのとき芸術上の批評を加えていたのを聞いて実に意外に思いました。ところが芝居の好きな人には私の厭《いや》だと思うところはいっこう
前へ 次へ
全9ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング