虚子君へ
夏目漱石

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)生涯《しょうがい》に

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)この上|相撲《すもう》へ
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 昨日は失敬。こう続けざまに芝居を見るのは私の生涯《しょうがい》において未曾有《みぞう》の珍象ですが、私が、私に固有な因循《いんじゅん》極まる在来の軌道をぐれ出して、ちょっとでも陽気な御交際《おつきあい》をするのは全くあなたのせいですよ。それにも飽《あ》き足らず、この上|相撲《すもう》へ連れて行って、それから招魂社の能へ誘うと云うんだから、あなたは偉い。実際善人か悪人か分らない。
 私は妙な性質《たち》で、寄席《よせ》興行その他娯楽を目的とする場所へ行って坐《すわ》っていると、その間に一種荒涼な感じが起るんです。左右前後の綺羅《きら》が頭の中へ反映して、心理学にいわゆる反照聯想《はんしょうれんそう》を起すためかとも思いますが、全くそうでもないらしいです。あんな場所で周囲の人の顔や様子を見ていると、みんな浮いて見えます。男でも女でもさも得意です。その時ふとこの顔とこの様子から、自分の住む現在の社会が成立しているのだという考がどこからか出て来て急に不安になるのです。そうして早々自分の穴へ帰りたくなるんです。
 そのときはまだ好いが、次にきっと自分も人から見れば、やっぱり浮いた顔をして、得意な調子をふりまわしているんだろうと気がつくのです。そうするといかにも自分に対して面目なくなります。その次には、自分の浮気や得意はこの場限りで、もう少しすると平生の我に帰るのだが、ほかの人のは、これが常態であって、家へ帰っても、職務に従事しても、あれでやっているんだと己惚《うぬぼ》れます。すると自分はどうしてもここにいるべきではないとなる。宅《うち》へ帰って、一二時間黙坐して見たいなんて気が起ります。
 そのくせ周囲の空気には名状すべからざる派出《はで》な刺激があって、一方からいうと前後を忘れ、自我を没して、この派出な刺激を痛切に味いたいのだから困ります。その意味からいうと、美々しい女や華奢《きゃしゃ》な男が、天地神明を忘れて、当面の春色に酔って、優越な都会人種をもって任ずる様や、あるいは天下をわがもの顔に得意にふるまうのが羨《うらや》ましいのです。そうかと云ってこの人造世界に向って猪進《ちょしん》する勇気は無論ないです。年来の生活状態からして、私は始終《しじゅう》山の手の竹藪《たけやぶ》の中へ招かれている。のみならず、この竹藪や書物のなかに、まるで趣の違った巣を食って生きて来たのです。その方が私の性《しょう》に合う。それから直接に官能に訴える人巧的な刺激を除くと、この巣の方が遥《はる》かに意義があるように思われるんだから、四辺の空気に快よく耽溺《たんでき》する事ができないで迷っちまいます。こんな中腰《ちゅうごし》の態度で、芝居を見物する原因は複雑のようですが、その五割|乃至《ないし》七割は舞台で演ずる劇そのものに帰着するのかも知れません。あの劇がね、私の巣の中の世界とはまるで別物で、しかもあまり上等でないからだろうと思うんです。こう云うと、役者や見物を一概に罵倒するようでわるいから、ちょっと説明します。
 この間帝国座の二宮君が来て、あなたの明治座の所感と云うものを読んだが、我々の神経は痲痺《まひ》しているせいだか何だかあなたの口にするような非難はとうてい持ち出す余地がない、芝居になれたものの眼から見ると、筋なぞはどんなに無理だって、妙だって、まるで忘れて見ていますと云いました。なるほどそれが僕の素人《しろうと》であるところかも知れないと答えたようなものの、私は二宮君にこんな事を反問しました。僕は芝居は分らないが小説は君よりも分っている。その僕が小説を読んで、第一に感ずるのは大体の筋すなわち構造である。筋なんかどうでも、局部に面白い所があれば構わないと云う気にはとてもなれない。したがって僕がいかほど芝居通になったところで、全然君と同じ観察点に立って、芝居を見得るかどうだか疑問であるが、その辺はどうだろう。――話は要領を得ずにすんでしまったが、私にはやッぱり構造、譬《たと》えば波瀾《はらん》、衝突から起る因果《いんが》とか、この因果と、あの因果の関係とか云うものが第一番に眼につくんです。ところがそれがあんまり善《よ》くできていないじゃありませんか。あるものは私の理性を愚弄《ぐろう》するために作ったと思われますね。太功記《たいこうき》などは全くそうだ。あるものは平板のべつ、のっぺらぽうでしょう。楠なんとかいうのは、誰が見たってのっぺらぽうに違ない。あるものに至っては、私の人情を傷《きずつ》けようと思って故意に残酷に拵《こしら》えさしたと思われるくらいです。きられ
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