学者と名誉
夏目漱石

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)木村項《きむらこう》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)発見者|木村《きむら》博士

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(例)[#地から2字上げ]
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 木村項《きむらこう》の発見者|木村《きむら》博士の名は驚くべき速力を以て旬日《じゅんじつ》を出ないうちに日本全国に広がった。博士の功績を表彰《ひょうしょう》した学士会院《がくしかいいん》とその表彰をあくまで緊張して報道する事を忘れなかった都下の各新聞は、久しぶりにといわんよりはむしろ初めて、純粋の科学者に対して、政客、軍人、及び実業家に譲らぬ注意を一般社会から要求した。学問のためにも賀すべき事で、博士のためにも喜ばしき事に違《ちがい》ない。
 けれども今より一カ月前に、この木村博士が何処に何をしているかを知っていたものは、全国を通じて僅か百人を出ぬ位であったろう。博士が忽然《こつぜん》と著名になったのは、今までまるで人の眼に触れないで経過した科学界という暗黒な人世《じんせい》の象面《しょうめん》に、一点急に輝やく場所が出来たと同じ事である。其所《そこ》が明るくなったのは仕合せである。しかし其所だけが明るくなったのは不都合である。
 一般の社会はつい二、三週間前まで博士の存在について全く神経を使わなかった。一般の社会は今日といえども科学という世界の存在については殆んど不関心《ふかんしん》に打ち過ぎつつある。彼らから見て闇《やみ》に等しい科学界が、一様の程度で彼らの眼に暗く映る間は、彼らが根柢《こんてい》ある人生の活力の或物に対して公平に無感覚であったと非難されるだけで済むが、いやしくもこの暗い中の一点が木村項の名で輝やき渡る以上、また他が依然として暗がりに静まり返る以上、彼らが今まで所有していた公平の無感覚は、俄然《がぜん》として不公平な感覚と変性《へんせい》しなければならない。これまではただ無知で済んでいたのである。それが急に不徳義に転換するのである。問題は単《ひとえ》に智愚を界《さかい》する理性一遍の墻《かき》を乗り超えて、道義の圏内《けんない》に落ち込んで来るのである。
 木村項だけが炳《へい》として俗人の眸《ひとみ》を焼くに至った変化につれて、木村項の周囲にある暗黒面は依然として、木
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