村項の知られざる前と同じように人からその存在を忘れられるならば、日本の科学は木村博士一人の科学で、他の物理学者、数学者、化学者、乃至《ないし》動植物学者に至っては、単位をすら充たす事の出来ない出来損《できそこ》ないでなければならない。貧弱なる日本ではあるが、余《よ》にはこれほどまでに愚図《ぐず》が揃《そろ》って科学を研究しているとは思えない。その方面の知識に疎《うと》い寡聞《かぶん》なる余の頭にさえ、この断見《だんけん》を否定すべき材料は充分あると思う。
 社会は今まで科学界をただ漫然と暗く眺めていた。そうしてその科学界を組織する学者の研究と発見とに対しては、その比較的価値|所《どころ》か、全く自家の着衣喫飯《ちゃくいきっぱん》と交渉のない、徒事《いたずらごと》の如く見傚《みな》して来た。そうして学士会院の表彰に驚ろいて、急に木村氏をえらく吹聴《ふいちょう》し始めた。吹聴の程度が木村氏の偉さと比例するとしても、木村氏と他の学者とを合せて、一様に坑中《こうちゅう》に葬り去った一カ月前の無知なる公平は、全然破れてしまった訳になる。一旦《いったん》木村博士を賞揚《しょうよう》するならば、木村博士の功績に応じて、他の学者もまた適当の名誉を荷《にな》うのが正当であるのに、他の学者は木村博士の表彰前と同じ暗黒な平面に取り残されて、ただ一の木村博士のみが、今日まで学者間に維持せられた比較的位地を飛び離れて、衆目の前に独り偉大に見えるようになったのは少なくとも道義的の不公平を敢てして、一般の社会に妙な誤解を与うる好意的な悪結果である。
 社会はただ新聞紙の記事を信じている。新聞紙はただ学士会院の所置《しょち》を信じている。学士会院は固《もと》より己《おの》れを信じているのだろう。余といえども木村項の名誉ある発見たるを疑うものではない。けれども学士会院がその発見者に比較的の位置を与える工夫《くふう》を講じないで、徒《いたず》らに表彰の儀式を祭典の如く見せしむるため被賞者に絶対の優越権を与えるかの如き挙に出でたのは、思慮の周密《しゅうみつ》と弁別《べんべつ》の細緻《さいち》を標榜《ひょうぼう》する学者の所置としては、余の提供にかかる不公平の非難を甘んじて受ける資格があると思う。
 学士会院が栄誉ある多数の学者中より今年はまず木村氏だけを選んで、他は年々順次に表彰するという意を当初から持
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