永日小品
夏目漱石

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)雑煮《ぞうに》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)元来|謡《うたい》のうの字も心得ない

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「疉+毛」、第4水準2−78−16]
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     元日

 雑煮《ぞうに》を食って、書斎に引き取ると、しばらくして三四人来た。いずれも若い男である。そのうちの一人がフロックを着ている。着なれないせいか、メルトンに対して妙に遠慮する傾《かたむ》きがある。あとのものは皆和服で、かつ不断着《ふだんぎ》のままだからとんと正月らしくない。この連中がフロックを眺めて、やあ――やあと一ツずつ云った。みんな驚いた証拠《しょうこ》である。自分も一番あとで、やあと云った。
 フロックは白い手巾《ハンケチ》を出して、用もない顔を拭《ふ》いた。そうして、しきりに屠蘇《とそ》を飲んだ。ほかの連中も大いに膳《ぜん》のものを突《つッ》ついている。ところへ虚子《きょし》が車で来た。これは黒い羽織に黒い紋付《もんつき》を着て、極《きわ》めて旧式にきまっている。あなたは黒紋付を持っていますが、やはり能《のう》をやるからその必要があるんでしょうと聞いたら、虚子が、ええそうですと答えた。そうして、一つ謡《うた》いませんかと云い出した。自分は謡ってもようござんすと応じた。
 それから二人して東北《とうぼく》と云うものを謡った。よほど以前に習っただけで、ほとんど復習と云う事をやらないから、ところどころはなはだ曖昧《あいまい》である。その上、我ながら覚束《おぼつか》ない声が出た。ようやく謡ってしまうと、聞いていた若い連中が、申し合せたように自分をまずいと云い出した。中にもフロックは、あなたの声はひょろひょろしていると云った。この連中は元来|謡《うたい》のうの字も心得ないもの共である。だから虚子と自分の優劣はとても分らないだろうと思っていた。しかし、批評をされて見ると、素人《しろうと》でも理の当然なところだからやむをえない。馬鹿を云えという勇気も出なかった。
 すると虚子が近来|鼓《つづみ》を習っているという話しを始めた。謡のうの字も知らない連中が、一つ打って御覧なさい、是非御聞かせなさいと所望《しょもう》している。虚子は自分に、じゃ、あなた謡って下さいと依頼した。これは囃《はやし》の何物たるを知らない自分にとっては、迷惑でもあったが、また斬新《ざんしん》という興味もあった。謡いましょうと引き受けた。虚子は車夫を走らして鼓を取り寄せた。鼓がくると、台所から七輪《しちりん》を持って来さして、かんかんいう炭火の上で鼓の皮を焙《あぶ》り始めた。みんな驚いて見ている。自分もこの猛烈な焙りかたには驚いた。大丈夫ですかと尋ねたら、ええ大丈夫ですと答えながら、指の先で張切った皮の上をかんと弾《はじ》いた。ちょっと好い音《ね》がした。もういいでしょうと、七輪からおろして、鼓の緒《お》を締《し》めにかかった。紋服《もんぷく》の男が、赤い緒をいじくっているところが何となく品《ひん》が好い。今度はみんな感心して見ている。
 虚子はやがて羽織を脱いだ。そうして鼓を抱《か》い込《こ》んだ。自分は少し待ってくれと頼んだ。第一彼がどこいらで鼓を打つか見当《けんとう》がつかないからちょっと打ち合せをしたい。虚子は、ここで掛声《かけごえ》をいくつかけて、ここで鼓をどう打つから、おやりなさいと懇《ねんごろ》に説明してくれた。自分にはとても呑《の》み込《こ》めない。けれども合点《がてん》の行くまで研究していれば、二三時間はかかる。やむをえず、好い加減に領承《りょうしょう》した。そこで羽衣《はごろも》の曲《くせ》を謡い出した。春霞《はるがすみ》たなびきにけりと半行ほど来るうちに、どうも出が好くなかったと後悔し始めた。はなはだ無勢力である。けれども途中から急に振るい出しては、総体の調子が崩《くず》れるから、萎靡因循《いびいんじゅん》のまま、少し押して行くと、虚子がやにわに大きな掛声をかけて、鼓《つづみ》をかんと一つ打った。
 自分は虚子がこう猛烈に来ようとは夢にも予期していなかった。元来が優美な悠長《ゆうちょう》なものとばかり考えていた掛声は、まるで真剣勝負のそれのように自分の鼓膜《こまく》を動かした。自分の謡《うたい》はこの掛声で二三度波を打った。それがようやく静まりかけた時に、虚子がまた腹いっぱいに横合から威嚇《おどか》した。自分の声は威嚇されるたびによろよろする。そうして小さくなる。しばらくすると聞いているものがくすくす笑い出した。自分も内心から馬鹿馬鹿しくなった。その時フロックが真先に立って、どっと吹き出した。自分も調子につれて、いっしょに吹き出した。
 それからさんざんな批評を受けた。中にもフロックのはもっとも皮肉であった。虚子は微笑しながら、仕方なしに自分の鼓《つづみ》に、自分の謡を合せて、めでたく謡《うた》い納《おさ》めた。やがて、まだ廻らなければならない所があると云って車に乗って帰って行った。あとからまたいろいろ若いものに冷かされた。細君までいっしょになって夫を貶《くさ》した末、高浜さんが鼓を御打ちなさる時、襦袢《じゅばん》の袖《そで》がぴらぴら見えたが、大変好い色だったと賞《ほ》めている。フロックはたちまち賛成した。自分は虚子の襦袢の袖の色も、袖の色のぴらぴらするところもけっして好いとは思わない。

     蛇

 木戸を開けて表へ出ると、大きな馬の足迹《あしあと》の中に雨がいっぱい湛《たま》っていた。土を踏むと泥の音が蹠裏《あしのうら》へ飛びついて来る。踵《かかと》を上げるのが痛いくらいに思われた。手桶《ておけ》を右の手に提《さ》げているので、足の抜《ぬ》き差《さし》に都合が悪い。際《きわ》どく踏《ふ》み応《こた》える時には、腰から上で調子を取るために、手に持ったものを放《ほう》り出《だ》したくなる。やがて手桶の尻をどっさと泥の底に据《す》えてしまった。危《あやう》く倒れるところを手桶の柄《え》に乗《の》し懸《かか》って向うを見ると、叔父さんは一間ばかり前にいた。蓑《みの》を着た肩の後《うしろ》から、三角に張った網の底がぶら下がっている。この時|被《かぶ》った笠《かさ》が少し動いた。笠のなかからひどい路《みち》だと云ったように聞えた。蓑の影はやがて雨に吹かれた。
 石橋の上に立って下を見ると、黒い水が草の間から推《お》されて来る。不断《ふだん》は黒節《くろぶし》の上を三寸とは超《こ》えない底に、長い藻《も》が、うつらうつらと揺《うご》いて、見ても奇麗《きれい》な流れであるのに、今日は底から濁った。下から泥を吹き上げる、上から雨が叩《たた》く、真中を渦《うず》が重なり合って通る。しばらくこの渦を見守っていた叔父さんは、口の内で、
「獲《と》れる」と云った。
 二人は橋を渡って、すぐ左へ切れた。渦は青い田の中をうねうねと延びて行く。どこまで押して行くか分らない流れの迹《あと》を跟《つ》けて一町ほど来た。そうして広い田の中にたった二人|淋《さび》しく立った。雨ばかり見える。叔父さんは笠の中から空を仰いだ。空は茶壺《ちゃつぼ》の葢《ふた》のように暗く封じられている。そのどこからか、隙間《すきま》なく雨が落ちる。立っていると、ざあっと云う音がする。これは身に着けた笠と蓑にあたる音である。それから四方の田にあたる音である。向うに見える貴王《きおう》の森《もり》にあたる音も遠くから交って来るらしい。
 森の上には、黒い雲が杉の梢《こずえ》に呼び寄せられて奥深く重なり合っている。それが自然《じねん》の重みでだらりと上の方から下《さが》って来る。雲の足は今杉の頭に絡《から》みついた。もう少しすると、森の中へ落ちそうだ。
 気がついて足元を見ると、渦《うず》は限《かぎり》なく水上《みなかみ》から流れて来る。貴王様の裏の池の水が、あの雲に襲われたものだろう。渦の形が急に勢《いきお》いづいたように見える。叔父さんはまた捲《ま》く渦を見守って、
「獲《と》れる」とさも何物をか取ったように云った。やがて蓑《みの》を着たまま水の中に下りた。勢いの凄《すさま》じい割には、さほど深くもない。立って腰まで浸《つか》るくらいである。叔父さんは河の真中に腰を据《す》えて、貴王の森を正面に、川上に向って、肩に担《かつ》いだ網をおろした。
 二人は雨の音の中にじっとして、まともに押して来る渦の恰好《かっこう》を眺めていた。魚がこの渦の下を、貴王の池から流されて通るに違いない。うまくかかれば大きなのが獲れると、一心に凄《すご》い水の色を見つめていた。水は固《もと》より濁っている。上皮《うわかわ》の動く具合だけで、どんなものが、水の底を流れるか全く分りかねる。それでも瞬《まばたき》もせずに、水際《みずぎわ》まで浸った叔父さんの手首の動くのを待っていた。けれどもそれがなかなかに動かない。
 雨脚《あまあし》はしだいに黒くなる。河の色はだんだん重くなる。渦の紋《もん》は劇《はげ》しく水上《みなかみ》から回《めぐ》って来る。この時どす黒い波が鋭く眼の前を通り過そうとする中に、ちらりと色の変った模様《もよう》が見えた。瞬《まばたき》を容《ゆる》さぬとっさの光を受けたその模様には長さの感じがあった。これは大きな鰻《うなぎ》だなと思った。
 途端《とたん》に流れに逆《さか》らって、網の柄《え》を握っていた叔父さんの右の手首が、蓑の下から肩の上まで弾《は》ね返《かえ》るように動いた。続いて長いものが叔父さんの手を離れた。それが暗い雨のふりしきる中に、重たい縄《なわ》のような曲線を描いて、向うの土手の上に落ちた。と思うと、草の中からむくりと鎌首《かまくび》を一尺ばかり持上げた。そうして持上げたまま屹《きっ》と二人を見た。
「覚えていろ」
 声はたしかに叔父さんの声であった。同時に鎌首《かまくび》は草の中に消えた。叔父さんは蒼《あお》い顔をして、蛇《へび》を投げた所を見ている。
「叔父さん、今、覚えていろと云ったのはあなたですか」
 叔父さんはようやくこっちを向いた。そうして低い声で、誰だかよく分らないと答えた。今でも叔父にこの話をするたびに、誰だかよく分らないと答えては妙な顔をする。

     泥棒

 寝ようと思って次の間へ出ると、炬燵《こたつ》の臭《におい》がぷんとした。厠《かわや》の帰りに、火が強過ぎるようだから、気をつけなくてはいけないと妻《さい》に注意して、自分の部屋へ引取った。もう十一時を過ぎている。床の中の夢は常のごとく安らかであった。寒い割に風も吹かず、半鐘《はんしょう》の音も耳に応《こた》えなかった。熟睡が時の世界を盛《も》り潰《つぶ》したように正体を失った。
 すると忽然《こつぜん》として、女の泣声で眼が覚《さ》めた。聞けばもよと云う下女の声である。この下女は驚いて狼狽《うろた》えるといつでも泣声を出す。この間|家《うち》の赤ん坊を湯に入れた時、赤ん坊が湯気《ゆけ》に上《あが》って、引きつけたといって五分ばかり泣声を出した。自分がこの下女の異様な声を聞いたのは、それが始めてである。啜《すす》り上《あ》げるようにして早口に物を云う。訴えるような、口説《くど》くような、詫《わび》を入れるような、情人《じょうじん》の死を悲しむような――とうてい普通の驚愕《きょうがく》の場合に出る、鋭くって短い感投詞《かんとうし》の調子ではない。
 自分は今云う通りこの異様の声で、眼が覚めた。声はたしかに妻《さい》の寝ている、次の部屋から出る。同時に襖《ふすま》を洩《も》れて赤い火がさっと暗い書斎に射した。今開ける瞼《まぶた》の裏に、この光が届くや否や自分は火事だと合点《がってん》して飛び起きた。そうして、突然《いきなり》隔《へだ》ての唐紙《からかみ》をがらりと開けた。
 その時自分は顛覆返《ひっくりかえ
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