》った炬燵《こたつ》を想像していた。焦《こ》げた蒲団《ふとん》を想像していた。漲《みな》ぎる煙と、燃える畳《たたみ》とを想像していた。ところが開けて見ると、洋灯《ランプ》は例のごとく点《とも》っている。妻と子供は常の通り寝ている。炬燵《こたつ》は宵《よい》の位地にちゃんとある。すべてが、寝る前に見た時と同じである。平和である。暖かである。ただ下女だけが泣いている。
下女は妻の蒲団の裾《すそ》を抑《おさ》えるようにして早口に物を云う。妻は眼を覚まして、ぱちぱちさせるばかりで別に起きる様子もない。自分は何事が起ったのかほとんど判じかねて、敷居際《しきいぎわ》に突立《つった》ったまま、ぼんやり部屋の中を見回《みまわ》した。途端《とたん》に下女の泣声のうちに、泥棒という二字が出た。それが自分の耳に這入《はい》るや否や、すべてが解決されたように自分はたちまち妻の部屋を大股《おおまた》に横切って、次《つぎ》の間《ま》に飛び出しながら、何だ――と怒鳴《どな》りつけた。けれども飛び出した次の部屋は真暗である。続く台所の雨戸が一枚|外《はず》れて、美しい月の光が部屋の入口まで射し込んでいる。自分は真夜中に人の住居《すまい》の奥を照らす月影を見て、おのずから寒いと感じた。素足《すあし》のまま板の間へ出て台所の流元《ながしもと》まで来て見ると、四辺《あたり》は寂《しん》としている。表を覗《のぞ》くと月ばかりである。自分は、戸口から一歩も外へ出る気にならなかった。
引き返して、妻の所へ来て、泥棒は逃げた、安心しろ、何も窃《と》られやしない、と云った。妻はこの時ようやく起き上っていた。何も云わずに洋灯を持って暗い部屋まで出て来て、箪笥《たんす》の前に翳《かざ》した。観音開《かんのんびら》きが取《と》り外《はず》されている。抽斗《ひきだし》が明けたままになっている。妻は自分の顔を見て、やっぱり窃られたんですと云った。自分もようやく泥棒が窃った後で逃げたんだと気がついた。何だか急に馬鹿馬鹿しくなった。片方を見ると、泣いて起しに来た下女の蒲団が取ってある。その枕元にもう一つ箪笥がある。その箪笥の上にまた用箪笥が乗っている。暮の事なので医者の薬礼《やくれい》その他がこの内に這入っているのだそうだ。妻に調べさせるとこっちの方は元の通りだと云う。下女が泣いて縁側《えんがわ》の方から飛び出したので、泥棒もやむをえず仕事の中途で逃げたのかも知れない。
そのうち、ほかの部屋に寝ていたものもみんな起きて来た。そうしてみんないろいろな事を云う。もう少し前に小用《こよう》に起きたのにとか、今夜は寝つかれないで、二時頃までは眼が冴《さ》えていたのにとか、ことごとく残念そうである。そのなかで、十《とお》になる長女は、泥棒が台所から這入《はい》ったのも、泥棒がみしみし縁側《えんがわ》を歩いたのも、すっかり知っていると云った。あらまあとお房《ふさ》さんが驚いている。お房さんは十八で、長女と同じ部屋に寝る親類の娘である。自分はまた床へ這入《はい》って寝た。
明くる日はこの騒動で、例よりは少し遅く起きた。顔を洗って、朝食《あさめし》をやっていると、台所で下女が泥棒の足痕《あしあと》を見つけたとか、見つけないとか騒いでいる。面倒《めんどう》だから書斎へ引き取った。引き取って十分も経《た》ったかと思うと、玄関で頼むと云う声がした。勇ましい声である。台所の方へ通じないようだから、自分で取次に出て見たら、巡査が格子《こうし》の前に立っていた。泥棒が這入ったそうですねと笑っている。戸締《とじま》りは好くしてあったのですかと聞くから、いや、どうもあまり好くありませんと答えた。じゃ仕方がない、締《しま》りが悪いとどこからでも這入りますよ、一枚一枚雨戸へ釘《くぎ》を差さなくちゃいけませんと注意する。自分ははあはあと返事をしておいた。この巡査に遇《あ》ってから、悪いものは、泥棒じゃなくって、不取締《ふとりしまり》な主人であるような心持になった。
巡査は台所へ廻った。そこで妻《さい》を捉《つら》まえて、紛失《ふんじつ》した物を手帳に書き付けている。繻珍《しゅちん》の丸帯が一本ですね、――丸帯と云うのは何ですか、丸帯と書いておけば解るですか、そう、それでは繻珍の丸帯が一本と、それから……
下女がにやにや笑っている。この巡査は丸帯も腹合《はらあわ》せもいっこう知らない。すこぶる単簡《たんかん》な面白い巡査である。やがて紛失の目録を十点ばかり書き上げてその下に価格を記入して、すると|〆《しめ》て百五十円になりますねと念を押して帰って行った。
自分はこの時始めて、何を窃《と》られたかを明瞭《めいりょう》に知った。失《な》くなったものは十点、ことごとく帯である。昨夜《ゆうべ》這入ったのは帯泥棒であった。御正月を眼前に控《ひか》えた妻は異《い》な顔をしている。子供が三箇日《さんがにち》にも着物を着換える事ができないのだそうだ。仕方がない。
昼過には刑事が来た。座敷へ上《あが》っていろいろ見ている。桶《おけ》の中に蝋燭《ろうそく》でも立てて仕事をしやしないかと云って、台所の小桶《こおけ》まで検《しら》べていた。まあ御茶でもおあがんなさいと云って、日当りの好い茶の間へ坐らせて話をした。
泥棒はたいてい下谷、浅草|辺《あたり》から電車でやって来て、明くる日の朝また電車で帰るのだそうだ。たいていは捉《つか》まらないものだそうだ。捉まえると刑事の方が損になるものだそうだ。泥棒を電車に乗せると電車賃が損になる。裁判に出ると、弁当代が損になる。機密費《きみつひ》は警視庁が半分取ってしまうのだそうだ。余りを各警察へ割りふるのだそうだ。牛込には刑事がたった三四人しかいないのだそうだ――警察の力ならたいていの事はできる者と信じていた自分は、はなはだ心細い気がした。話をして聞かせる刑事も心細い顔をしていた。
出入《でいり》のものを呼んで戸締りを直そうと思ったら生憎《あやにく》、暮で用が立て込んでいて来られない。そのうちに夜になった。仕方がないから、元の通りにしておいて寝る。みんな気味が悪そうである。自分もけっして好い心持ではない。泥棒は各自勝手に取締《とりしま》るべきものであると警察から宣告されたと一般だからである。
それでも昨日《きのう》の今日《きょう》だから、まあ大丈夫だろうと、気を楽に持って枕に就《つ》いた。するとまた夜中に妻《さい》から起された。さっきから、台所の方ががたがた云っている。気味がわるいから起きて見て下さいと云う。なるほどがたがたいう。妻はもう泥棒が這入《はい》ったような顔をしている。
自分はそっと床を出た。忍び足に妻の部屋を横切って、隔《へだ》ての襖《ふすま》の傍《そば》までくると、次の間では下女が鼾《いびき》をかいている。自分はできるだけ静かに襖を開けた。そうして、真暗な部屋の中に一人立った。ごとりごとりと云う音がする。たしかに台所の入口である。暗いなかを影の動くように三歩《みあし》ほど音のする方へ近《ちかづ》くと、もう部屋の出口である。障子《しょうじ》が立っている。そとはすぐ板敷になる。自分は障子に身を寄せて、暗がりで耳を立てた。やがて、ごとりと云った。しばらくしてまたごとりと云った。自分はこの怪しい音を約四五遍聞いた。そうして、これは板敷の左にある、戸棚《とだな》の奥から出るに違ないという事をたしかめた。たちまち普通の歩調と、尋常の所作《しょさ》をして、妻の部屋へ帰って来た。鼠《ねずみ》が何か噛《かじ》っているんだ、安心しろと云うと、妻はそうですかとありがたそうな返事をした。それからは二人とも落ちついて寝てしまった。
朝になってまた顔を洗って、茶の間へ来ると、妻が鼠の噛った鰹節《かつぶし》を、膳《ぜん》の前へ出して、昨夜《ゆうべ》のはこれですよと説明した。自分ははあなるほどと、一晩中|無惨《むざん》にやられた鰹節を眺めていた。すると妻は、あなたついでに鼠を追って、鰹節《おかか》をしまって下されば好いのにと少し不平がましく云った。自分もそうすれば好かったとこの時始めて気がついた。
柿
喜《き》いちゃんと云う子がいる。滑《なめ》らかな皮膚《ひふ》と、鮮《あざや》かな眸《ひとみ》を持っているが、頬《ほお》の色は発育の好い世間の子供のように冴々《さえざえ》していない。ちょっと見ると一面に黄色い心持ちがする。御母《おっか》さんがあまり可愛《かわい》がり過ぎて表へ遊びに出さないせいだと、出入りの女髪結《おんなかみゆい》が評した事がある。御母さんは束髪の流行《はや》る今の世に、昔風の髷《まげ》を四日目四日目にきっと結《ゆ》う女で、自分の子を喜いちゃん喜いちゃんと、いつでも、ちゃん付《づけ》にして呼んでいる。このお母《っか》さんの上に、また切下《きりさげ》の御祖母《おばあ》さんがいて、その御祖母さんがまた喜いちゃん喜いちゃんと呼んでいる。喜いちゃん御琴《おこと》の御稽古《おけいこ》に行く時間ですよ。喜いちゃんむやみに表へ出て、そこいらの子供と遊んではいけませんなどと云っている。
喜《き》いちゃんは、これがために滅多《めった》に表へ出て遊んだ事がない。もっとも近所はあまり上等でない。前に塩煎餅屋《しおせんべいや》がある。その隣に瓦師《かわらし》がある。少し先へ行くと下駄《げた》の歯入と、鋳《い》かけ錠前直《じょうまえなお》しがある。ところが喜いちゃんの家《うち》は銀行の御役人である。塀《へい》のなかに松が植えてある。冬になると植木屋が来て狭い庭に枯松葉《かれまつば》を一面に敷いて行く。
喜いちゃんは仕方がないから、学校から帰って、退屈になると、裏へ出て遊んでいる。裏は御母《おっか》さんや、御祖母《おばあ》さんが張物《はりもの》をする所である。よしが洗濯をする所である。暮になると向鉢巻《むこうはちまき》の男が臼《うす》を担《かつ》いで来て、餅《もち》を搗《つ》く所である。それから漬菜《つけな》に塩を振って樽《たる》へ詰込む所である。
喜いちゃんはここへ出て、御母さんや御祖母さんや、よしを相手にして遊んでいる。時には相手のいないのに、たった一人で出てくる事がある。その時は浅い生垣《いけがき》の間から、よく裏の長屋を覗《のぞ》き込む。
長屋は五六軒ある。生垣の下が三四尺|崖《がけ》になっているのだから、喜いちゃんが覗き込むと、ちょうど上から都合よく見下《みおろ》すようにできている。喜いちゃんは子供心に、こうして裏の長屋を見下すのが愉快なのである。造兵へ出る辰《たつ》さんが肌を抜いで酒を呑《の》んでいると、御酒を呑んでてよと御母さんに話す。大工の源坊《げんぼう》が手斧《ておの》を磨《と》いでいると、何か磨いでてよと御祖母さんに知らせる。そのほか喧嘩《けんか》をしててよ、焼芋《やきいも》を食べててよなどと、見下した通りを報告する。すると、よしが大きな声を出して笑う。御母さんも、御祖母さんも面白そうに笑う。喜いちゃんは、こうして笑って貰うのが一番得意なのである。
喜いちゃんが裏を覗いていると、時々源坊の倅《せがれ》の与吉と顔を合わす事がある。そうして、三度に一度ぐらいは話をする。けれども喜いちゃんと与吉だから、話の合う訳がない。いつでも喧嘩《けんか》になってしまう。与吉がなんだ蒼《あお》ん膨《ぶく》れと下から云うと、喜いちゃんは上から、やあい鼻垂らし小僧、貧乏人、と軽侮《さげすむ》ように丸い顎《あご》をしゃくって見せる。一遍は与吉が怒って下から物干竿《ものほしざお》を突き出したので、喜いちゃんは驚いて家《うち》へ逃げ込んでしまった。その次には、喜いちゃんが、毛糸で奇麗《きれい》に縢《かが》った護謨毬《ゴムまり》を崖下《がけした》へ落したのを、与吉が拾ってなかなか渡さなかった。御返しよ、放《ほう》っておくれよ、よう、と精一杯にせっついたが与吉は毬を持ったまま、上を見て威張って突立《つった》っている。詫《あや》まれ、詫まったら返してやると云う。喜いちゃんは、誰が詫まるものか、泥
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