なく通る。いずれも屋根に人を載せている。その馬車の色が赤であったり黄であったり、青や茶や紺《こん》であったり、仕切《しき》りなしに自分の横を追い越して向うへ行く。遠くの方を透《す》かして見ると、どこまで五色が続いているのか分らない。ふり返れば、五色の雲のように動いて来る。どこからどこへ人を載せて行くものかしらんと立ち止まって考えていると、後《うしろ》から背の高い人が追《お》い被《かぶ》さるように、肩のあたりを押した。避《よ》けようとする右にも背の高い人がいた。左りにもいた。肩を押した後の人は、そのまた後の人から肩を押されている。そうしてみんな黙っている。そうして自然のうちに前へ動いて行く。
 自分はこの時始めて、人の海に溺《おぼ》れた事を自覚した。この海はどこまで広がっているか分らない。しかし広い割には極めて静かな海である。ただ出る事ができない。右を向いても痞《つか》えている。左を見ても塞《ふさ》がっている。後をふり返ってもいっぱいである。それで静かに前の方へ動いて行く。ただ一筋の運命よりほかに、自分を支配するものがないかのごとく、幾万の黒い頭が申し合せたように歩調を揃《そろ》えて一歩ずつ前へ進んで行く。
 自分は歩きながら、今出て来た家の事を想《おも》い浮べた。一様の四階建の、一様の色の、不思議な町は、何でも遠くにあるらしい。どこをどう曲って、どこをどう歩いたら帰れるか、ほとんど覚束《おぼつか》ない気がする。よし帰れても、自分の家は見出《みいだ》せそうもない。その家は昨夕暗い中に暗く立っていた。
 自分は心細く考えながら、背の高い群集に押されて、仕方なしに大通を二つ三つ曲がった。曲るたんびに、昨夕の暗い家とは反対の方角に遠ざかって行くような心持がした。そうして眼の疲れるほど人間のたくさんいるなかに、云うべからざる孤独を感じた。すると、だらだら坂へ出た。ここは大きな道路が五つ六つ落ち合う広場のように思われた。今まで一筋に動いて来た波は、坂の下で、いろいろな方角から寄せるのと集まって、静かに廻転し始めた。
 坂の下には、大きな石刻《いしぼり》の獅子《しし》がある。全身灰色をしておった。尾の細い割に、鬣《たてがみ》に渦《うず》を捲《ま》いた深い頭は四斗樽《しとだる》ほどもあった。前足を揃《そろ》えて、波を打つ群集の中に眠っていた。獅子は二ついた。下は舗石《しきいし》で敷きつめてある。その真中に太い銅の柱があった。自分は、静かに動く人の海の間に立って、眼を挙《あ》げて、柱の上を見た。柱は眼の届く限り高く真直《まっすぐ》に立っている。その上には大きな空が一面に見えた。高い柱はこの空を真中で突き抜いているように聳《そび》えていた。この柱の先には何があるか分らなかった。自分はまた人の波に押されて広場から、右の方の通りをいずくともなく下《さが》って行った。しばらくして、ふり返ったら、竿《さお》のような細い柱の上に、小さい人間がたった一人立っていた。

     人間

 御作《おさく》さんは起きるが早いか、まだ髪結《かみゆい》は来ないか、髪結は来ないかと騒いでいる。髪結は昨夕《ゆうべ》たしかに頼んでおいた。ほかさまでございませんから、都合をして、是非九時までには上《あが》りますとの返事を聞いて、ようやく安心して寝たくらいである。柱時計を見ると、もう九時には五分しかない。どうしたんだろうと、いかにも焦《じ》れったそうなので、見兼ねた下女は、ちょっと見て参りましょうと出て行った。御作さんは及《およ》び腰《ごし》になって、障子《しょうじ》の前に取り出した鏡台を、立ちながら覗《のぞ》き込んで見た。そうして、わざと唇《くちびる》を開けて、上下《うえした》とも奇麗《きれい》に揃《そろ》った白い歯を残らず露《あら》わした。すると時計が柱の上でボンボンと九時を打ち出した。御作さんは、すぐ立ち上って、間《あい》の襖《ふすま》を開けて、どうしたんですよ、あなたもう九時過ぎですよ。起きて下さらなくっちゃ、晩《おそ》くなるじゃありませんかと云った。御作さんの旦那《だんな》は九時を聞いて、今床の上に起き直ったところである。御作さんの顔を見るや否や、あいよと云いながら、気軽に立ち上がった。
 御作さんは、すぐ台所の方へ取って返して、楊枝《ようじ》と歯磨《はみがき》と石鹸《しゃぼん》と手拭《てぬぐい》を一《ひ》と纏《まと》めにして、さあ、早く行っていらっしゃい、と旦那に渡した。帰りにちょっと髯《ひげ》を剃《す》って来るよと、銘仙《めいせん》のどてら[#「どてら」に傍点]の下へ浴衣《ゆかた》を重ねた旦那は、沓脱《くつぬぎ》へ下りた。じゃ、ちょいと御待ちなさいと、御作さんはまた奥へ駆《か》け込んだ。その間に旦那は楊枝を使い出した。御作さんは用箪笥《ようだんす》の抽出《ひきだし》から小さい熨斗袋《のしぶくろ》を出して、中へ銀貨を入れて、持って出た。旦那は口が利《き》けないものだから、黙って、袋を受取って格子《こうし》を跨《また》いだ。御作さんは旦那の肩の後《うしろ》へ、手拭《てぬぐい》の余りがぶら下がっているのを、少しの間眺めていたが、やがて、また奥へ引込《ひっこ》んで、ちょっと鏡台の前へ坐って、再び我が姿を映して見た。それから箪笥の抽出を半分開けて、少し首を傾《かたむ》けた。やがて、中から何か二三点取り出して、それを畳の上へ置いて考えた。が、せっかく取り出したものを、一つだけ残して、あとは丁寧《ていねい》にしまってしまった。それからまた二番目の抽出を開けた。そうしてまた考えた。御作さんは、考えたり、出したり、またはしまったりするので約三十分ほど費やした。その間も始終《しじゅう》心配そうに柱時計を眺めていた。ようやく衣裳《いしょう》を揃《そろ》えて、大きな欝金木綿《うこんもめん》の風呂敷にくるんで、座敷の隅《すみ》に押しやると、髪結が驚いたような大きな声を出して勝手口から這入《はい》って来た。どうも遅くなってすみません、と息を喘《はず》ませて言訳を云っている。御作さんは、本当に、御忙がしいところを御気の毒さまでしたねえと、長い煙管《きせる》を出して髪結に煙草《たばこ》を呑《の》ました。
 梳手《すきて》が来ないので、髪を結《ゆ》うのにだいぶ暇《ひま》が取れた。旦那は湯に入《い》って、髭《ひげ》を剃《す》って、やがて帰って来た。その間に、御作さんは、髪結に今日は美《み》いちゃんを誘って、旦那に有楽座へ連れて行って貰うんだと話した。髪結はおやおや私も御伴《おとも》をしたいもんだなどと、だいぶ冗談交《じょうだんまじ》りの御世辞を使った末、どうぞごゆっくりと帰って行った。
 旦那は欝金木綿《うこんもめん》の風呂敷を、ちょっと剥《はぐ》って見て、これを着て行くのかい、これよりか、この間の方がお前には似合うよと云った。でも、あれは、もう暮に、美《み》いちゃんの所へ着て行ったんですものと御作さんが答えた。そうか、じゃこれが好いだろう。おれはあっちの綿入羽織《わたいればおり》を着て行こうか、少し寒いようだねと、旦那がまた云い出すと、およしなさいよ、見っともない、一つものばかり着てと、御作さんは絣《かすり》の綿入羽織を出さなかった。
 やがて、御化粧が出来上って、流行の鶉縮緬《うずらちりめん》の道行《みちゆき》を着て、毛皮の襟巻《えりまき》をして、御作さんは旦那といっしょに表へ出た。歩きながら旦那にぶら下がるようにして話をする。四つ角まで出ると交番の所に人が大勢立っていた。御作さんは旦那の廻套《まわし》の羽根《はね》を捕《つら》まえて、伸び上がりながら、群集《ぐんじゅ》の中を覗《のぞ》き込んだ。
 真中に印袢天《しるしばんてん》を着た男が、立つとも坐るとも片づかずに、のらくらしている。今までも泥の中へ何度も倒れたと見えて、たださえ色の変った袢天《はんてん》がびたびたに濡《ぬ》れて寒く光っている。巡査が御前は何だと云うと、呂律《ろれつ》の回らない舌で、お、おれは人間だと威張っている。そのたんびに、みんなが、どっと笑う。御作さんも旦那の顔を見て笑った。すると酔っ払いは承知しない。怖《こわ》い眼をして、あたりを見廻しながら、な、なにがおかしい。おれが人間なのが、どこがおかしい。こう見《め》えたって、と云って、だらりと首を垂れてしまうかと思うと、突然《いきなり》思い出したように、人間だいと大きな声を出す。
 ところへまた印袢天を着た背の高い黒い顔をした男が荷車を引いてどこからか、やって来た。人を押し分けて巡査に何か小さな声で云っていたが、やがて、酔っ払いの方を向いて、さあ、野郎連れて行ってやるから、この上へ乗れと云った。酔払いは嬉《うれ》しそうな顔をして、ありがてえと云いながら荷車の上に、どさりと仰向《あおむ》けに寝た。明《あ》かるい空を見て、しょぼしょぼした眼を、二三度ぱちつかせたが、箆棒《べらぼう》め、こう見《め》えたって人間でえと云った。うん人間だ、人間だからおとなしくしているんだよと、背の高い男は藁《わら》の縄《なわ》で酔払いを荷車の上へしっかり縛《しば》りつけた。そうして屠《ほふ》られた豚のように、がらがらと大通りを引いて行った。御作さんはやっぱり廻套の羽根を捕まえたまま、注目飾《しめかざ》りの間を、向うへ押されて行く荷車の影を見送った。そうして、これから美いちゃんの所へ行って、美いちゃんに話す種が一つ殖《ふ》えたのを喜んだ。

     山鳥

 五六人寄って、火鉢《ひばち》を囲みながら話をしていると、突然一人の青年が来た。名も聞かず、会った事もない、全く未知の男である。紹介状も携《たずさ》えずに、取次を通じて、面会を求めるので、座敷へ招《しょう》じたら、青年は大勢いる所へ、一羽の山鳥《やまどり》を提《さ》げて這入《はい》って来た。初対面の挨拶《あいさつ》が済むと、その山鳥を座の真中に出して、国から届きましたからといって、それを当座の贈物にした。
 その日は寒い日であった。すぐ、みんなで山鳥の羹《あつもの》を拵《こしら》えて食った。山鳥を料《りょう》る時、青年は袴《はかま》ながら、台所へ立って、自分で毛を引いて、肉を割《さ》いて、骨をことことと敲《たた》いてくれた。青年は小作《こづく》りの面長《おもなが》な質《たち》で、蒼白《あおじろ》い額の下に、度の高そうな眼鏡を光らしていた。もっとも著るしく見えたのは、彼の近眼よりも、彼の薄黒い口髭《くちひげ》よりも、彼の穿《は》いていた袴であった。それは小倉織《こくらおり》で、普通の学生には見出《みいだ》し得《う》べからざるほどに、太い縞柄《しまがら》の派出《はで》な物であった。彼はこの袴の上に両手を載せて、自分は南部《なんぶ》のものだと云った。
 青年は一週間ほど経《た》ってまた来た。今度は自分の作った原稿を携《たずさ》えていた。あまり佳《よ》くできていなかったから、遠慮なくその旨《むね》を話すと、書き直して見ましょうと云って持って帰った。帰ってから一週間の後《のち》、また原稿を懐《ふところ》にして来た。かようにして彼《か》れは来るたびごとに、書いたものを何か置いて行かない事はなかった。中には三冊続きの大作さえあった。しかしそれはもっとも不出来なものであった。自分は彼れの手に成ったもののうちで、もっとも傑《すぐ》れたと思われるのを、一二度雑誌へ周旋した事がある。けれども、それは、ただ編輯者《へんしゅうしゃ》の御情《おなさけ》で誌上にあらわれただけで、一銭の稿料にもならなかったらしい。自分が彼の生活難を耳にしたのはこの時である。彼はこれから文《ぶん》を売って口を糊《のり》するつもりだと云っていた。
 或時妙なものを持って来てくれた。菊の花を乾《ほ》して、薄い海苔《のり》のように一枚一枚に堅めたものである。精進《しょうじん》の畳鰯《たたみいわし》だと云って、居合せた甲子《こうし》が、さっそく浸《ひた》しものに湯がいて、箸《はし》を下《くだ》しながら、酒を飲んだ。それから、鈴蘭《すずらん》の造花を一枝持って来てくれた事もある。妹が拵《こ
前へ 次へ
全13ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング