いている。歯が利《き》かなくって、もごもごしているくせに何となく調子の荒いところが見える。娘も阿爺《おやじ》に対するときは、険相《けんそう》な顔がいとど険相になるように見える。どうしても普通の親子ではない。――自分はこう考えて寝た。
 翌日朝飯を食いに下りると、昨夕《ゆうべ》の親子のほかに、また一人家族が殖《ふ》えている。新しく食卓に連《つら》なった人は、血色の好い、愛嬌《あいきょう》のある、四十|恰好《がっこう》の男である。自分は食堂の入口でこの男の顔を見た時、始めて、生気のある人間社会に住んでいるような心持ちがした。my brother《マイブラザー》と主婦がその男を自分に紹介した。やっぱり亭主では無かったのである。しかし兄弟とはどうしても受取れないくらい顔立《かおだち》が違っていた。
 その日は中食《ちゅうじき》を外でして、三時過ぎに帰って、自分の部屋へ這入《はい》ると間もなく、茶を飲みに来いと云って呼びにきた。今日も曇っている。薄暗い食堂の戸を開けると、主婦がたった一人|煖炉《ストーブ》の横に茶器を控《ひか》えて坐《すわ》っていた。石炭を燃《もや》してくれたので、幾分か陽気な感じがした。燃えついたばかりの※[#「(諂−言)+炎」、第3水準1−87−64]《ほのお》に照らされた主婦の顔を見ると、うすく火熱《ほて》った上に、心持|御白粉《おしろい》を塗《つ》けている。自分は部屋の入り口で化粧の淋《さび》しみと云う事を、しみじみと悟った。主婦は自分の印象を見抜いたような眼遣《めづか》いをした。自分が主婦から一家の事情を聞いたのはこの時である。
 主婦の母は、二十五年の昔、ある仏蘭西人《フランスじん》に嫁《とつ》いで、この娘を挙《あ》げた。幾年か連れ添った後《のち》夫は死んだ。母は娘の手を引いて、再び独逸人《ドイツじん》の許《もと》に嫁いだ。その独逸人が昨夜《ゆうべ》の老人である。今では倫敦《ロンドン》のウェスト・エンドで仕立屋の店を出して、毎日毎日そこへ通勤している。先妻の子も同じ店で働いているが、親子非常に仲が悪い。一《ひと》つ家《うち》にいても、口を利《き》いた事がない。息子《むすこ》は夜きっと遅く帰る。玄関で靴を脱いで足袋跣足《たびはだし》になって、爺《おやじ》に知れないように廊下を通って、自分の部屋へ這入って寝てしまう。母はよほど前に失《な》くなった。死ぬ時に自分の事をくれぐれも云いおいて死んだのだが、母の財産はみんな阿爺《おやじ》の手に渡って、一銭も自由にする事ができない。仕方がないから、こうして下宿をして小遣《こづかい》を拵《こしら》えるのである。アグニスは――
 主婦はそれより先を語らなかった。アグニスと云うのはここのうちに使われている十三四の女の子の名である。自分はその時今朝見た息子《むすこ》の顔と、アグニスとの間にどこか似たところがあるような気がした。あたかもアグニスは焼麺麭《トースト》を抱《かか》えて厨《くりや》から出て来た。
「アグニス、焼麺麭《トースト》を食べるかい」
 アグニスは黙って、一片《いっぺん》の焼麺麭を受けてまた厨の方へ退いた。
 一箇月の後《のち》自分はこの下宿を去った。

     過去の匂い

 自分がこの下宿を出る二週間ほど前に、K君は蘇格蘭《スコットランド》から帰って来た。その時自分は主婦によってK君に紹介された。二人の日本人が倫敦《ロンドン》の山の手の、とある小さな家に偶然落ち合って、しかも、まだ互に名乗《なの》り換《かわ》した事がないので、身分も、素性《すじょう》も、経歴も分らない外国婦人の力を藉《か》りて、どうか何分と頭を下げたのは、考えると今もって妙な気がする。その時この老令嬢は黒い服を着ていた。骨張って膏《あぶら》の脱けたような手を前へ出して、Kさん、これがNさんと云ったが、全く云い切らない先に、また一本の手を相手の方へ寄せて、Nさん、これがKさんと、公平に双方を等分に引き合せた。
 自分は老令嬢の態度が、いかにも、厳《おごそか》で、一種重要の気に充《み》ちた形式を具えているのに、尠《すくな》からず驚かされた。K君は自分の向《むこう》に立って、奇麗《きれい》な二重瞼《ふたえまぶち》の尻に皺《しわ》を寄せながら、微笑を洩《も》らしていた。自分は笑うと云わんよりはむしろ矛盾の淋《さび》しみを感じた。幽霊の媒妁《ばいしゃく》で、結婚の儀式を行ったら、こんな心持ではあるまいかと、立ちながら考えた。すべてこの老令嬢の黒い影の動く所は、生気を失って、たちまち古蹟に変化するように思われる。誤ってその肉に触れれば、触れた人の血が、そこだけ冷たくなるとしか想像できない。自分は戸の外に消えてゆく女の足音に半《なか》ば頭《こうべ》を回《めぐ》らした。
 老令嬢が出て行ったあとで、自分とK君はたちまち親しくなってしまった。K君の部屋は美くしい絨※[#「疉+毛」、第4水準2−78−16]《じゅうたん》が敷いてあって、白絹《しらぎぬ》の窓掛《まどかけ》が下がっていて、立派な安楽椅子とロッキング・チェアが備えつけてある上に、小さな寝室が別に附属している。何より嬉《うれ》しいのは断えず煖炉《ストーブ》に火を焚《た》いて、惜気《おしげ》もなく光った石炭を崩《くず》している事である。
 これから自分はK君の部屋で、K君と二人で茶を飲むことにした。昼はよく近所の料理店《りょうりや》へいっしょに出かけた。勘定《かんじょう》は必ずK君が払ってくれた。K君は何でも築港の調査に来ているとか云って、だいぶ金を持っていた。家《うち》にいると、海老茶《えびちゃ》の繻子《しゅす》に花鳥の刺繍《ぬいとり》のあるドレッシング・ガウンを着て、はなはだ愉快そうであった。これに反して自分は日本を出たままの着物がだいぶ汚《よご》れて、見共《みとも》ない始末であった。K君はあまりだと云って新調の費用を貸してくれた。
 二週間の間K君と自分とはいろいろな事を話した。K君が、今に慶応内閣《けいおうないかく》を作るんだと云った事がある。慶応年間に生れたものだけで内閣を作るから慶応内閣と云うんだそうである。自分に、君はいつの生れかと聞くから慶応三年だと答えたら、それじゃ、閣員の資格があると笑っていた。K君はたしか慶応二年か元年生れだと覚えている。自分はもう一年の事で、K君と共に枢機《すうき》に参する権利を失うところであった。
 こんな面白い話をしている間に、時々下の家族が噂《うわさ》に上《のぼ》る事があった。するとK君はいつでも眉《まゆ》をひそめて、首を振っていた。アグニスと云う小さい女が一番|可愛想《かわいそう》だと云っていた。アグニスは朝になると石炭をK君の部屋に持って来る。昼過には茶とバタと麺麭《パン》を持って来る。だまって持って来て、だまって置いて帰る。いつ見ても蒼褪《あおざ》めた顔をして、大きな潤《うるおい》のある眼でちょっと挨拶《あいさつ》をするだけである。影のようにあらわれては影のように下りて行く。かつて足音のした試しがない。
 ある時自分は、不愉快だから、この家《うち》を出ようと思うとK君に告げた。K君は賛成して、自分はこうして調査のため方々飛び歩いている身体《からだ》だから、構わないが、君などは、もっとコンフォタブルな所へ落ち着いて勉強したらよかろうと云う注意をした。その時K君は地中海の向側《むこうがわ》へ渡るんだと云って、しきりに旅装をととのえていた。
 自分が下宿を出るとき、老令嬢は切《せつ》に思いとまるようにと頼んだ。下宿料は負ける、K君のいない間は、あの部屋を使っても構わないとまで云ったが、自分はとうとう南の方へ移ってしまった。同時にK君も遠くへ行ってしまった。
 二三箇月してから、突然K君の手紙に接した。旅から帰って来た。当分ここにいるから遊びに来いと書いてあった。すぐ行きたかったけれども、いろいろ都合があって、北の果《はて》まで推《お》しかける時間がなかった。一週間ほどして、イスリントンまで行く用事ができたのを幸いに、帰りにK君の所へ回って見た。
 表二階の窓から、例の羽二重《はぶたえ》の窓掛が引《ひ》き絞《しぼ》ったまま硝子《ガラス》に映っている。自分は暖かい煖炉《ストーブ》と、海老茶《えびちゃ》の繻子《しゅす》の刺繍《ぬいとり》と、安楽椅子と、快活なK君の旅行談を予想して、勇んで、門を入って、階段を駆《か》け上《あが》るように敲子《ノッカー》をとんとんと打った。戸の向側《むこうがわ》に足音がしないから、通じないのかと思って、再び敲子に手を掛けようとする途端《とたん》に、戸が自然《じねん》と開《あ》いた。自分は敷居から一歩なかへ足を踏み込んだ。そうして、詫《わ》びるように自分をじっと見上げているアグニスと顔を合わした。その時この三箇月ほど忘れていた、過去の下宿の匂が、狭い廊下の真中で、自分の嗅覚《きゅうかく》を、稲妻《いなずま》の閃《ひら》めくごとく、刺激した。その匂のうちには、黒い髪と黒い眼と、クルーゲルのような顔と、アグニスに似た息子《むすこ》と、息子の影のようなアグニスと、彼らの間に蟠《わだか》まる秘密を、一度にいっせいに含んでいた。自分はこの匂を嗅《か》いだ時、彼らの情意、動作、言語、顔色を、あざやかに暗い地獄の裏《うち》に認めた。自分は二階へ上がってK君に逢《あ》うに堪《た》えなかった。

     猫の墓

 早稲田へ移ってから、猫がだんだん瘠《や》せて来た。いっこうに小供と遊ぶ気色《けしき》がない。日が当ると縁側《えんがわ》に寝ている。前足を揃《そろ》えた上に、四角な顎《あご》を載せて、じっと庭の植込《うえこみ》を眺めたまま、いつまでも動く様子が見えない。小供がいくらその傍《そば》で騒いでも、知らぬ顔をしている。小供の方でも、初めから相手にしなくなった。この猫はとても遊び仲間にできないと云わんばかりに、旧友を他人扱いにしている。小供のみではない、下女はただ三度の食《めし》を、台所の隅《すみ》に置いてやるだけでそのほかには、ほとんど構いつけなかった。しかもその食はたいてい近所にいる大きな三毛猫が来て食ってしまった。猫は別に怒《おこ》る様子もなかった。喧嘩《けんか》をするところを見た試《ため》しもない。ただ、じっとして寝ていた。しかしその寝方にどことなく余裕《ゆとり》がない。伸《の》んびり楽々と身を横に、日光を領《りょう》しているのと違って、動くべきせき[#「せき」に傍点]がないために――これでは、まだ形容し足りない。懶《ものう》さの度《ど》をある所まで通り越して、動かなければ淋《さび》しいが、動くとなお淋しいので、我慢して、じっと辛抱しているように見えた。その眼つきは、いつでも庭の植込を見ているが、彼《か》れはおそらく木の葉も、幹の形も意識していなかったのだろう。青味がかった黄色い瞳子《ひとみ》を、ぼんやり一《ひ》と所《ところ》に落ちつけているのみである。彼れが家《うち》の小供から存在を認められぬように、自分でも、世の中の存在を判然《はっきり》と認めていなかったらしい。
 それでも時々は用があると見えて、外へ出て行く事がある。するといつでも近所の三毛猫から追《おっ》かけられる。そうして、怖《こわ》いものだから、縁側を飛び上がって、立て切ってある障子《しょうじ》を突き破って、囲炉裏《いろり》の傍まで逃げ込んで来る。家のものが、彼れの存在に気がつくのはこの時だけである。彼れもこの時に限って、自分が生きている事実を、満足に自覚するのだろう。
 これが度《たび》重なるにつれて、猫の長い尻尾《しっぽ》の毛がだんだん抜けて来た。始めはところどころがぽくぽく穴のように落ち込んで見えたが、後《のち》には赤肌《あかはだ》に脱け広がって、見るも気の毒なほどにだらりと垂れていた。彼れは万事に疲れ果てた、体躯《からだ》を圧《お》し曲げて、しきりに痛い局部を舐《な》め出した。
 おい猫がどうかしたようだなと云うと、そうですね、やっぱり年を取ったせいでしょうと、妻《さい》は至極《しごく》冷淡である。自分もそのま
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