聞かせなさいと所望《しょもう》している。虚子は自分に、じゃ、あなた謡って下さいと依頼した。これは囃《はやし》の何物たるを知らない自分にとっては、迷惑でもあったが、また斬新《ざんしん》という興味もあった。謡いましょうと引き受けた。虚子は車夫を走らして鼓を取り寄せた。鼓がくると、台所から七輪《しちりん》を持って来さして、かんかんいう炭火の上で鼓の皮を焙《あぶ》り始めた。みんな驚いて見ている。自分もこの猛烈な焙りかたには驚いた。大丈夫ですかと尋ねたら、ええ大丈夫ですと答えながら、指の先で張切った皮の上をかんと弾《はじ》いた。ちょっと好い音《ね》がした。もういいでしょうと、七輪からおろして、鼓の緒《お》を締《し》めにかかった。紋服《もんぷく》の男が、赤い緒をいじくっているところが何となく品《ひん》が好い。今度はみんな感心して見ている。
 虚子はやがて羽織を脱いだ。そうして鼓を抱《か》い込《こ》んだ。自分は少し待ってくれと頼んだ。第一彼がどこいらで鼓を打つか見当《けんとう》がつかないからちょっと打ち合せをしたい。虚子は、ここで掛声《かけごえ》をいくつかけて、ここで鼓をどう打つから、おやりなさいと
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