これは黒い羽織に黒い紋付《もんつき》を着て、極《きわ》めて旧式にきまっている。あなたは黒紋付を持っていますが、やはり能《のう》をやるからその必要があるんでしょうと聞いたら、虚子が、ええそうですと答えた。そうして、一つ謡《うた》いませんかと云い出した。自分は謡ってもようござんすと応じた。
 それから二人して東北《とうぼく》と云うものを謡った。よほど以前に習っただけで、ほとんど復習と云う事をやらないから、ところどころはなはだ曖昧《あいまい》である。その上、我ながら覚束《おぼつか》ない声が出た。ようやく謡ってしまうと、聞いていた若い連中が、申し合せたように自分をまずいと云い出した。中にもフロックは、あなたの声はひょろひょろしていると云った。この連中は元来|謡《うたい》のうの字も心得ないもの共である。だから虚子と自分の優劣はとても分らないだろうと思っていた。しかし、批評をされて見ると、素人《しろうと》でも理の当然なところだからやむをえない。馬鹿を云えという勇気も出なかった。
 すると虚子が近来|鼓《つづみ》を習っているという話しを始めた。謡のうの字も知らない連中が、一つ打って御覧なさい、是非御
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