立っている。豊三郎は婆さんの顔を見た。その顔は蒼《あお》くむくんでいる。婆さんは腫《は》れぼったい瞼《まぶち》の奥から細い眼を出して、眩《まぼ》しそうに豊三郎を見上げた。豊三郎は急に自分の眼を机の上に落した。
三日目に豊三郎は花屋へ行って菊を買って来た。国の庭に咲くようなのをと思って、探して見たが見当らないので、やむをえず花屋のあてがったのを、そのまま三本ほど藁《わら》で括《くく》って貰って、徳利《とくり》のような花瓶《かびん》へ活《い》けた。行李《こうり》の底から、帆足万里《ほあしばんり》の書いた小さい軸《じく》を出して、壁へ掛けた。これは先年帰省した時、装飾用のためにわざわざ持って来たものである。それから豊三郎は座蒲団《ざぶとん》の上へ坐って、しばらく軸と花を眺めていた。その時窓の前の長屋の方で、豊々《とよとよ》と云う声がした。その声が調子と云い、音色《ねいろ》といい、優しい故郷《ふるさと》の母に少しも違わない。豊三郎はたちまち窓の障子《しょうじ》をがらりと開けた。すると昨日《きのう》見た蒼ぶくれの婆さんが、落ちかかる秋の日を額《ひたい》に受けて、十二三になる鼻垂小僧を手招きしていた。がらりと云う音がすると同時に、婆さんは例のむくんだ眼を翻《ひるが》えして下から豊三郎を見上げた。
金
劇烈《げきれつ》な三面記事を、写真版にして引き伸ばしたような小説を、のべつに五六冊読んだら、全く厭《いや》になった。飯を食っていても、生活難が飯といっしょに胃《い》の腑《ふ》まで押し寄せて来そうでならない。腹が張れば、腹がせっぱ詰《つま》って、いかにも苦しい。そこで帽子を被《かぶ》って空谷子《くうこくし》の所へ行った。この空谷子と云うのは、こういう時に、話しをするのに都合よく出来上った、哲学者みたような占者《うらないしゃ》みたような、妙な男である。無辺際《むへんざい》の空間には、地球より大きな火事がところどころにあって、その火事の報知が吾々《われわれ》の眼に伝わるには、百年もかかるんだからなあと云って、神田の火事を馬鹿にした男である。もっとも神田の火事で空谷子の家が焼けなかったのはたしかな事実である。
空谷子は小さな角火鉢《かくひばち》に倚《もた》れて、真鍮《しんちゅう》の火箸《ひばし》で灰の上へ、しきりに何か書いていた。どうだね、相変らず考え込んでるじゃないかと云うと、さも面倒くさそうな顔つきをして、うん今|金《かね》の事を少し考えているところだと答えた。せっかく空谷子の所へ来て、また金の話なぞを聞かされてはたまらないから、黙ってしまった。すると空谷子が、さも大発見でもしたように、こう云った。
「金は魔物だね」
空谷子の警句としてははなはだ陳腐《ちんぷ》だと思ったから、そうさね、と云ったぎり相手にならずにいた。空谷子は火鉢の灰の中に大きな丸を描《か》いて、君ここに金があるとするぜ、と丸の真中を突ッついた。
「これが何にでも変化する。衣服《きもの》にもなれば、食物《くいもの》にもなる。電車にもなれば宿屋にもなる」
「下らんな。知れ切ってるじゃないか」
「否《いや》、知れ切っていない。この丸がね」とまた大きな丸を描いた。
「この丸が善人にもなれば悪人にもなる。極楽へも行く、地獄へも行く。あまり融通が利《き》き過ぎるよ。まだ文明が進まないから困る。もう少し人類が発達すると、金の融通に制限をつけるようになるのは分り切っているんだがな」
「どうして」
「どうしても好いが、――例《たと》えば金を五色《ごしき》に分けて、赤い金、青い金、白い金などとしても好かろう」
「そうして、どうするんだ」
「どうするって。赤い金は赤い区域内だけで通用するようにする。白い金は白い区域内だけで使う事にする。もし領分外へ出ると、瓦《かわら》の破片《かけら》同様まるで幅が利《き》かないようにして、融通の制限をつけるのさ」
もし空谷子が初対面の人で、初対面の最先《さいさき》からこんな話をしかけたら、自分は空谷子をもって、あるいは脳の組織に異状のある論客《ろんかく》と認めたかも知れない。しかし空谷子は地球より大きな火事を想像する男だから、安心してその訳を聞いて見た。空谷子の答はこうであった。
「金はある部分から見ると、労力の記号だろう。ところがその労力がけっして同種類のものじゃないから、同じ金で代表さして、彼是《ひし》相通ずると、大変な間違になる。例えば僕がここで一万|噸《トン》の石炭を掘ったとするぜ。その労力は器械的の労力に過ぎないんだから、これを金に代えたにしたところが、その金は同種類の器械的の労力と交換する資格があるだけじゃないか。しかるに一度《ひとたび》この器械的の労力が金に変形するや否や、急に大自在《だいじざい》の神通力《じんずうりき》を得て、道
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