。歩くたびにキルトの襞が揺れて、膝と股《もも》の間がちらちら出る。肉の色に恥を置かぬ昔の袴である。
 主人は毛皮で作った、小さい木魚《もくぎょ》ほどの蟇口《がまぐち》を前にぶら下げている。夜|煖炉《だんろ》の傍《そば》へ椅子を寄せて、音のする赤い石炭を眺めながら、この木魚の中から、パイプを出す、煙草《たばこ》を出す。そうしてぷかりぷかりと夜長《よなが》を吹かす。木魚《もくぎょ》の名をスポーランと云う。
 主人といっしょに崖《がけ》を下りて、小暗《おぐら》い路《みち》に這入《はい》った。スコッチ・ファーと云う常磐木《ときわぎ》の葉が、刻《きざ》み昆布《こんぶ》に雲が這《は》いかかって、払っても落ちないように見える。その黒い幹をちょろちょろと栗鼠《りす》が長く太った尾を揺《ふ》って、駆《か》け上《のぼ》った。と思うと古く厚みのついた苔《こけ》の上をまた一匹、眸《ひとみ》から疾《と》く駆《か》け抜けたものがある。苔は膨《ふく》れたまま動かない。栗鼠の尾は蒼黒《あおぐろ》い地《じ》を払子《ほっす》のごとくに擦《す》って暗がりに入った。
 主人は横をふり向いて、ピトロクリの明るい谷を指《ゆび》さした。黒い河は依然としてその真中を流れている。あの河を一里半北へ溯《さかのぼ》るとキリクランキーの峡間《はざま》があると云った。
 高地人《ハイランダース》と低地人《ローランダース》とキリクランキーの峡間《はざま》で戦った時、屍《かばね》が岩の間に挟《はさま》って、岩を打つ水を塞《せ》いた。高地人と低地人の血を飲んだ河の流れは色を変えて三日の間ピトロクリの谷を通った。
 自分は明日《あす》早朝キリクランキーの古戦場を訪《と》おうと決心した。崖から出たら足の下に美しい薔薇《ばら》の花弁《はなびら》が二三片散っていた。

     声

 豊三郎《とよさぶろう》がこの下宿へ越して来てから三日になる。始めの日は、薄暗い夕暮の中に、一生懸命に荷物の片《かた》づけやら、書物の整理やらで、忙しい影のごとく動いていた。それから町の湯に入って、帰るや否や寝てしまった。明《あく》る日は、学校から戻ると、机の前へ坐って、しばらく書見をして見たが、急に居所《いどころ》が変ったせいか、全く気が乗らない。窓の外でしきりに鋸《のこぎり》の音がする。
 豊三郎は坐《すわ》ったまま手を延《のば》して障子《しょうじ》を明けた。すると、つい鼻の先で植木屋がせっせと梧桐《あおぎり》の枝をおろしている。可なり大きく延びた奴を、惜気《おしげ》もなく股《また》の根から、ごしごし引いては、下へ落して行く内に、切口の白い所が目立つくらい夥《おびただ》しくなった。同時に空《むな》しい空が遠くから窓にあつまるように広く見え出した。豊三郎は机に頬杖《ほおづえ》を突いて、何気《なにげ》なく、梧桐《ごとう》の上を高く離れた秋晴を眺めていた。
 豊三郎が眼を梧桐から空へ移した時は、急に大きな心持がした。その大きな心持が、しばらくして落ちついて来るうちに、懐《なつ》かしい故郷《ふるさと》の記憶が、点を打ったように、その一角にあらわれた。点は遥《はる》かの向《むこう》にあるけれども、机の上に乗せたほど明らかに見えた。
 山の裾《すそ》に大きな藁葺《わらぶき》があって、村から二町ほど上《のぼ》ると、路は自分の門の前で尽きている。門を這入《はい》る馬がある。鞍《くら》の横に一叢《ひとむら》の菊を結《ゆわ》いつけて、鈴を鳴らして、白壁の中へ隠れてしまった。日は高く屋《や》の棟《むね》を照らしている。後《うしろ》の山を、こんもり隠す松の幹がことごとく光って見える。茸《たけ》の時節である。豊三郎は机の上で今|採《と》ったばかりの茸の香《か》を嗅《か》いだ。そうして、豊《とよ》、豊という母の声を聞いた。その声が非常に遠くにある。それで手に取るように明らかに聞える。――母は五年前に死んでしまった。
 豊三郎はふと驚いて、わが眼を動かした。すると先刻《さっき》見た梧桐《ごとう》の先がまた眸《ひとみ》に映った。延びようとする枝が、一所《ひとところ》で伐《き》り詰められているので、股《また》の根は、瘤《こぶ》で埋《うず》まって、見悪《みにく》いほど窮屈に力が入《い》っている。豊三郎はまた急に、机の前に押しつけられたような気がした。梧桐を隔《へだ》てて、垣根の外を見下《みおろ》すと、汚《きた》ない長屋が三四軒ある。綿の出た蒲団《ふとん》が遠慮なく秋の日に照りつけられている。傍《そば》に五十余りの婆さんが立って、梧桐の先を見ていた。
 ところどころ縞《しま》の消えかかった着物の上に、細帯を一筋巻いたなりで、乏《とも》しい髪を、大きな櫛《くし》のまわりに巻きつけて、茫然《ぼんやり》と、枝を透《す》かした梧桐の頂辺《てっぺん》を見たまま
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