胡麻竹《ごまだけ》の杖《つえ》を突いて来た。杖の先には光を帯びた鳥の羽《は》をふさふさと着けて、照る日に輝かした。縁に牽く黄色い縞の、袖らしい裏が、銀のように光ったと思ったらこれも行き過ぎた。
すると、すぐ後から真白な顔があらわれた。額から始まって、平たい頬を塗って、顎《あご》から耳の附根《つけね》まで遡《さかの》ぼって、壁のように静かである。中に眸《ひとみ》だけが活きていた。唇《くちびる》は紅《べに》の色を重ねて、青く光線を反射した。胸のあたりは鳩《はと》の色のように見えて、下は裾《すそ》までばっと視線を乱している中に、小さなヴァイオリンを抱《かか》えて、長い弓を厳《おごそ》かに担《かつ》いでいる。二足で通り過ぎる後《うしろ》には、背中へ黒い繻子《しゅす》の四角な片《きれ》をあてて、その真中にある金糸《きんし》の刺繍《ぬい》が、一度に日に浮いた。
最後に出たものは、全く小《ち》さい。手摺の下から転《ころ》げ落ちそうである。けれども大きな顔をしている。その中《うち》でも頭はことに大きい。それへ五色の冠《かんむり》を戴《いただ》いてあらわれた。冠の中央にあるぽっちが高く聳《そび》えているように思われる。身には井の字の模様のある筒袖《つつそで》に、藤鼠《ふじねずみ》の天鵞絨《びろうど》の房の下《さが》ったものを、背から腰の下まで三角に垂れて、赤い足袋《たび》を踏んでいた。手に持った朝鮮の団扇《うちわ》が身体《からだ》の半分ほどある。団扇には赤と青と黄で巴《ともえ》を漆《うるし》で描《か》いた。
行列は静かに自分の前を過ぎた。開け放しになった戸が、空《むな》しい日の光を、書斎の入口に送って、縁側《えんがわ》に幅四尺の寂《さび》しさを感じた時、向うの隅《すみ》で急にヴァイオリンを擦《こす》る音がした。ついで、小さい咽喉《のど》が寄り合って、どっと笑う声がした。
宅《うち》の小供は毎日母の羽織や風呂敷を出して、こんな遊戯《いたずら》をしている。
昔
ピトロクリの谷は秋の真下《ました》にある。十月の日が、眼に入る野と林を暖かい色に染めた中に、人は寝たり起きたりしている。十月の日は静かな谷の空気を空の半途《はんと》で包《くる》んで、じかには地にも落ちて来ぬ。と云って、山向《やまむこう》へ逃げても行かぬ。風のない村の上に、いつでも落ちついて、じっと動かずに靄《かす》んでいる。その間に野と林の色がしだいに変って来る。酸《す》いものがいつの間にか甘くなるように、谷全体に時代がつく。ピトロクリの谷は、この時百年の昔《むか》し、二百年の昔にかえって、やすやすと寂《さ》びてしまう。人は世に熟《う》れた顔を揃《そろ》えて、山の背を渡る雲を見る。その雲は或時は白くなり、或時は灰色になる。折々は薄い底から山の地《じ》を透《す》かせて見せる。いつ見ても古い雲の心地がする。
自分の家はこの雲とこの谷を眺めるに都合好く、小さな丘の上に立っている。南から一面に家の壁へ日があたる。幾年《いくねん》十月の日が射したものか、どこもかしこも鼠色《ねずみいろ》に枯れている西の端に、一本の薔薇《ばら》が這《は》いかかって、冷たい壁と、暖かい日の間に挟《はさ》まった花をいくつか着けた。大きな弁《べん》は卵色に豊かな波を打って、萼《がく》から翻《ひるが》えるように口を開《あ》けたまま、ひそりとところどころに静まり返っている。香《におい》は薄い日光に吸われて、二間の空気の裡《うち》に消えて行く。自分はその二間の中に立って、上を見た。薔薇は高く這い上《のぼ》って行く。鼠色の壁は薔薇の蔓《つる》の届かぬ限りを尽くして真直に聳《そび》えている。屋根が尽きた所にはまだ塔がある。日はそのまた上の靄《もや》の奥から落ちて来る。
足元は丘がピトロクリの谷へ落ち込んで、眼の届く遥《はるか》の下が、平《ひら》たく色で埋《うず》まっている。その向う側の山へ上《のぼ》る所は層々と樺《かば》の黄葉《きば》が段々に重なり合って、濃淡の坂が幾階となく出来ている。明《あきら》かで寂《さ》びた調子が谷一面に反射して来る真中を、黒い筋が横に蜿《うね》って動いている。泥炭《でいたん》を含んだ渓水《たにみず》は、染粉《そめこ》を溶《と》いたように古びた色になる。この山奥に来て始めて、こんな流を見た。
後《うしろ》から主人が来た。主人の髯《ひげ》は十月の日に照らされて七分がた白くなりかけた。形装《なり》も尋常ではない。腰にキルトというものを着けている。俥《くるま》の膝掛《ひざかけ》のように粗《あら》い縞《しま》の織物である。それを行灯袴《あんどんばかま》に、膝頭《ひざがしら》まで裁《た》って、竪《たて》に襞《ひだ》を置いたから、膝脛《ふくらはぎ》は太い毛糸の靴足袋《くつたび》で隠すばかりである
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