した。大変な損でさあ。――虫の食ったんですか。いまいましいから、みんな打遣《うっちゃ》って来ました。支那人の事ですから、やっぱり知らん顔をして、俵にして、おおかた本国へ送ったでげしょう。
「それから薩摩芋《さつまいも》を買い込んだこともありまさあ。一俵四円で、二千俵の契約でね。ところが注文の来たのが月半《つきなかば》、十四日でして二十五日までにと云うんだから、どう骨を折ったって二千俵と云う数が寄りっこありませんや。とうてい駄目だからって、一応断りました。実を云うと残念でしたがな。すると商館の番頭がいうには、否《いや》契約書には二十五日とあるけれども、けっしてその通りには厳行しないからと、再三|勧《すす》めるもんだから、ついその気になりましてね。――いえ芋《いも》は支那へ行くんじゃありません。亜米利加《アメリカ》でした。やッぱり亜米利加にも薩摩芋を食う奴があると見えるんですよ。妙な事があるもんで、――で、さっそく買収にかかりました。埼玉から川越《かわごえ》の方をな。だが口でこそ二千俵ですが、いざ買い占めるとなるとなかなか大したもんですからな。でもようやくの事で、とうとう二十八日過ぎに約束通りの俵を持って、行きますと、――実に狡猾《こうかつ》な奴《やつ》がいるもんで、約定書《やくじょうがき》のうちに、もしはなはだしい日限の違約があるときは、八千円の損害賠償を出すと云う項目があるんですよ。ところが彼はその条款《じょうかん》を応用しちまって、どうしても代金を渡さないんです。もっとも手付《てづけ》は四千円取っておきましたがね。そうこうしている内に、先方《むこう》では芋を船へ積み込んじまったから、どうする事もできない訳になりました。あんまり業腹《ごうはら》だから、千円の保証金を納めましてね、現物取押《げんぶつとりおさえ》を申請して、とうとう芋を取り押えてやりました。ところが上には上があるもんで、先方は八千円の保証金を納めて、構わず船を出しちまったんです。でいよいよ裁判になったにはなったんですが、何しろ約定書が入れてあるもんだから、しようがない。私は裁判官の前で泣きましたね。芋はただ取られる、裁判には負ける、こんな馬鹿な事はない、少しは、まあ私の身になって考えて見て下さいって。裁判官も腹のなかでは、だいぶ私の方に同情した様子でしたが、法律の力じゃ、どうする事もできないもんですからな。とうとう負けました」
行列
ふと机から眼を上げて、入口の方を見ると、書斎の戸がいつの間にか[#「いつの間にか」は底本では「いつの間か」]、半分明いて、広い廊下が二尺ばかり見える。廊下の尽きる所は唐《から》めいた手摺《てすり》に遮《さえぎ》られて、上には硝子戸《ガラスど》が立て切ってある。青い空から、まともに落ちて来る日が、軒端《のきば》を斜《はす》に、硝子を通して、縁側《えんがわ》の手前だけを明るく色づけて、書斎の戸口までぱっと暖かに射した。しばらく日の照る所を見つめていると、眼の底に陽炎《かげろう》が湧《わ》いたように、春の思いが饒《ゆた》かになる。
その時この二尺あまりの隙間《すきま》に、空《くう》を踏んで、手摺《てすり》の高さほどのものがあらわれた。赤に白く唐草《からくさ》を浮き織りにした絹紐《リボン》を輪に結んで、額から髪の上へすぽりと嵌《は》めた間に、海棠《かいどう》と思われる花を青い葉ごと、ぐるりと挿《さ》した。黒髪の地《じ》に薄紅《うすくれない》の莟《つぼみ》が大きな雫《しずく》のごとくはっきり見えた。割合に詰った顎《あご》の真下から、一襞《ひとひだ》になって、ただ一枚の紫《むらさき》が縁《えん》までふわふわと動いている。袖《そで》も手も足も見えない。影は廊下に落ちた日を、するりと抜けるように通った。後《あと》から、――
今度は少し低い。真紅《しんく》の厚い織物を脳天から肩先まで被《かぶ》って、余る背中に筋違《すじかい》の笹《ささ》の葉の模様を背負《しょ》っている。胴中《どうなか》にただ一葉《ひとは》、消炭色《けしずみいろ》の中に取り残された緑が見える。それほど笹の模様は大きかった。廊下に置く足よりも大きかった。その足が赤くちらちらと三足ほど動いたら、低いものは、戸口の幅を、音なく行き過ぎた。
第三の頭巾《ずきん》は白と藍《あい》の弁慶《べんけい》の格子《こうし》である。眉廂《まびさし》の下にあらわれた横顔は丸く膨《ふく》らんでいる。その片頬の真中が林檎《りんご》の熟したほどに濃い。尻だけ見える茶褐色の眉毛《まみえ》の下が急に落ち込んで、思わざる辺《あたり》から丸い鼻が膨《ふく》れた頬を少し乗り越して、先だけ顔の外へ出た。顔から下は一面に黄色い縞《しま》で包まれている。長い袖を三寸余も縁《えん》に牽《ひ》いた。これは頭より高い
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