のがなかったのだそうである。
 倅は道具屋は廃《よ》しになさいと云った。老人も道具屋はいかんと云った。二週間ほどしてから、老人はまた桐の箱を抱《かか》えて出た。そうして倅の課長さんの友達の所へ、紹介を得て見せに行った。その時も鉄砲玉を買って来なかった。倅が帰るや否や、あんな眼の明《あ》かない男にどうして譲れるものか、あすこにあるものは、みんな贋物《にせもの》だ、とさも倅の不徳義のように云った。倅は苦笑していた。
 二月の初旬に偶然|旨《うま》い伝手《つて》ができて、老人はこの幅《ふく》を去る好事家《こうずか》に売った。老人は直《ただち》に谷中《やなか》へ行って、亡妻のために立派な石碑を誂《あつら》えた。そうしてその余りを郵便貯金にした。それから五日ほど立って、常のごとく散歩に出たが、いつもよりは二時間ほど後《おく》れて帰って来た。その時両手に大きな鉄砲玉の袋を二つ抱えていた。売り払った懸物が気にかかるから、もう一遍《いっぺん》見せて貰いに行ったら、四畳半の茶座敷にひっそりと懸かっていて、その前には透《す》き徹《とお》るような臘梅《ろうばい》が活《い》けてあったのだそうだ。老人はそこで御茶の御馳走《ごちそう》になったのだという。おれが持っているよりも安心かも知れないと老人は倅に云った。倅はそうかも知れませんと答えた。小供は三日間鉄砲玉ばかり食っていた。

     紀元節

 南向きの部屋であった。明《あ》かるい方を背中にした三十人ばかりの小供が黒い頭を揃《そろ》えて、塗板《ぬりばん》を眺めていると、廊下から先生が這入《はい》って来た。先生は背の低い、眼の大きい、瘠《や》せた男で、顎《あご》から頬《ほお》へ掛けて、髯《ひげ》が爺汚《じじむさ》く生《は》えかかっていた。そうしてそのざらざらした顎の触《さわ》る着物の襟《えり》が薄黒く垢附《あかづ》いて見えた。この着物と、この髯の不精《ぶしょう》に延びるのと、それから、かつて小言《こごと》を云った事がないのとで、先生はみなから馬鹿にされていた。
 先生はやがて、白墨を取って、黒板に記元節と大きく書いた。小供はみんな黒い頭を机の上に押しつけるようにして、作文を書き出した。先生は低い背を伸ばして、一同を見廻していたが、やがて廊下伝いに部屋を出て行った。
 すると、後《うしろ》から三番目の机の中ほどにいた小供が、席を立って先生の洋卓《テーブル》の傍《そば》へ来て、先生の使った白墨を取って、塗板《ぬりばん》に書いてある記元節の記の字へ棒を引いて、その傍《わき》へ新しく紀と肉太《にくぶと》に書いた。ほかの小供は笑いもせずに驚いて見ていた。さきの小供が席へ帰ってしばらく立つと、先生も部屋へ帰って来た。そうして塗板に気がついた。
「誰か記を紀と直したようだが、記と書いても好いんですよ」と云ってまた一同を見廻した。一同は黙っていた。
 記を紀と直したものは自分である。明治四十二年の今日《こんにち》でも、それを思い出すと下等な心持がしてならない。そうして、あれが爺むさい福田先生でなくって、みんなの怖《こわ》がっていた校長先生であればよかったと思わない事はない。

     儲口《もうけぐち》

「あっちは栗《くり》の出る所でしてね。まあ相場がざっと両《りょう》に四升ぐらいのもんでしょうかね。それをこっちへ持って来ると、升《しょう》に一円五十銭もするんですよ。それでね、私がちょうど向うにいた時分でしたが、浜から千八百俵ばかり注文がありました。旨《うま》く行くと一升二円以上につくんですから、さっそくやりましたよ。千八百俵|拵《こしら》えて、私が自分で栗といっしょに浜まで持って行くと、――なに相手は支那人で、本国へ送り出すんでさあ。すると、支那人が出て来て、宜《よろ》しいと云うから、もう済んだのかと思うと、蔵の前へ高さ一間《いっけん》もあろうと云う大きな樽《たる》を持ち出して、水をその中へどんどん汲《く》み込ませるんです。――いえ何のためだか私にもいっこう分らなかったんで。何しろ大きな樽ですからね、水を張るんだって容易なこっちゃありません。かれこれ半日かかっちまいました。それから何をするかと思って見ていると、例の栗をね、俵《ひょう》をほどいて、どんどん樽の中へ放り込むんですよ。――私も実に驚いたが、支那人てえ奴《やつ》は本当に食えないもんだと後《あと》になって、ようやく気がついたんです。栗を水の中に打《ぶ》ち込むとね、たしかな奴は尋常に沈みますが、虫の食った奴だけはみんな浮いちまうんです。それを支那人の野郎|笊《ざる》でしゃくってね、ペケ[#「ペケ」に傍点]だって、俵《ひょう》の目方から引いてしまうんだからたまりません。私は傍《そば》で見ていてはらはらしました。何しろ七分通り虫が入《い》ってたんだから弱りま
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