わり》に流したように、黒い色に染められた重たい霧が、目と口と鼻とに逼《せま》って来た。外套《がいとう》は抑《おさ》えられたかと思うほど湿《しめ》っている。軽い葛湯《くずゆ》を呼吸するばかりに気息《いき》が詰まる。足元は無論|穴蔵《あなぐら》の底を踏むと同然である。
 自分はこの重苦しい茶褐色の中に、しばらく茫然《ぼうぜん》と佇立《たたず》んだ。自分の傍《そば》を人が大勢通るような心持がする。けれども肩が触れ合わない限りははたして、人が通っているのかどうだか疑わしい。その時この濛々《もうもう》たる大海の一点が、豆ぐらいの大きさにどんよりと黄色く流れた。自分はそれを目標《めあて》に、四歩ばかりを動かした。するとある店先の窓硝子《まどガラス》の前へ顔が出た。店の中では瓦斯《ガス》を点《つ》けている。中は比較的明かである。人は常のごとくふるまっている。自分はやっと安心した。
 バタシーを通り越して、手探《てさぐ》りをしないばかりに向うの岡へ足を向けたが、岡の上は仕舞屋《しもたや》ばかりである。同じような横町が幾筋も並行《へいこう》して、青天の下《もと》でも紛《まぎ》れやすい。自分は向って左の二つ目を曲ったような気がした。それから二町ほど真直《まっすぐ》に歩いたような心持がした。それから先はまるで分らなくなった。暗い中にたった一人立って首を傾《かたむ》けていた。右の方から靴の音が近寄って来た。と思うと、それが四五間手前まで来て留まった。それからだんだん遠退《とおの》いて行く。しまいには、全く聞えなくなった。あとは寂《しん》としている。自分はまた暗い中にたった一人立って考えた。どうしたら下宿へ帰れるかしらん。

     懸物

 大刀老人《だいとうろうじん》は亡妻の三回忌までにはきっと一基の石碑《せきひ》を立ててやろうと決心した。けれども倅《せがれ》の痩腕《やせうで》を便《たより》に、ようやく今日《こんにち》を過すよりほかには、一銭の貯蓄もできかねて、また春になった。あれの命日も三月八日だがなと、訴えるような顔をして、倅に云うと、はあ、そうでしたっけと答えたぎりである。大刀老人は、とうとう先祖伝来の大切な一幅を売払って、金の工面《くめん》をしようときめた。倅に、どうだろうと相談すると、倅は恨《うら》めしいほど無雑作《むぞうさ》にそれがいいでしょうと賛成してくれた。倅は内務省の社寺局へ出て四十円の月給を貰っている。女房に二人の子供がある上に、大刀老人に孝養を尽くすのだから骨が折れる。老人がいなければ大切な懸物《かけもの》も、とうに融通の利《き》くものに変形したはずである。
 この懸物《かけもの》は方一尺ほどの絹地で、時代のために煤竹《すすだけ》のような色をしている。暗い座敷へ懸けると、暗澹《あんたん》として何が画《か》いてあるか分らない。老人はこれを王若水《おうじゃくすい》の画いた葵《あおい》だと称している。そうして、月に一二度ぐらいずつ袋戸棚《ふくろとだな》から出して、桐《きり》の箱の塵《ちり》を払って、中のものを丁寧《ていねい》に取り出して、直《じか》に三尺の壁へ懸《か》けては、眺めている。なるほど眺めていると、煤《すす》けたうちに、古血のような大きな模様がある。緑青《ろくしょう》の剥《は》げた迹《あと》かと怪しまれる所も微《かす》かに残っている。老人はこの模糊《もこ》たる唐画《とうが》の古蹟に対《むか》って、生き過ぎたと思うくらいに住み古した世の中を忘れてしまう。ある時は懸物《かけもの》をじっと見つめながら、煙草《たばこ》を吹かす。または御茶を飲む。でなければただ見つめている。御爺さん、これ、なあにと小供が来て指を触《つ》けようとすると、始めて月日に気がついたように、老人は、触《さわ》ってはいけないよと云いながら、静かに立って、懸物を巻きにかかる。すると、小供が御爺さん鉄砲玉はと聞く。うん鉄砲玉を買って来るから、悪戯《いたずら》をしてはいけないよと云いながら、そろそろと懸物を巻いて、桐の箱へ入れて、袋戸棚《ふくろとだな》へしまって、そうしてそこいらを散歩しに出る。帰りには町内の飴屋《あめや》へ寄って、薄荷入《はっかいり》の鉄砲玉を二袋買って来て、そら鉄砲玉と云って、小供にやる。倅《せがれ》が晩婚なので小供は六つと四つである。
 倅と相談をした翌日、老人は桐の箱を風呂敷《ふろしき》に包んで朝早くから出た。そうして四時頃になって、また桐の箱を持って帰って来た。小供が上り口まで出て、御爺さん鉄砲玉はと聞くと、老人は何にも云わずに、座敷へ来て、箱の中から懸物を出して、壁へ懸《か》けて、ぼんやり眺め出した。四五軒の道具屋を持って廻ったら、落款《らっかん》がないとか、画《え》が剥《は》げているとか云って、老人の予期したほどの尊敬を、懸物に払うも
前へ 次へ
全31ページ中20ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング