事もできずに、焔を見物している。焔は鼻の先から燃え上がる。
 傍《そば》に押し詰められているものは口々にどこだ、どこだと号《さけ》ぶ。聞かれるものは、そこだそこだと云う。けれども両方共に焔の起る所までは行かれない。※[#「(諂−言)+炎」、第3水準1−87−64]は勢いを得て、静かな空を煽《あお》るように、凄《すさま》じく上《のぼ》る。……
 翌日|午過《ひるすぎ》散歩のついでに、火元を見届《みとどけ》ようと思う好奇心から、例の坂を上って、昨夕《ゆうべ》の路次を抜けて、蒸汽喞筒の留まっていた組屋敷へ出て、二三間先の曲角《まがりかど》をまがって、ぶらぶら歩いて見たが、冬籠《ふゆごも》りと見える家が軒を並べてひそりと静まっているばかりである。焼け跡はどこにも見当《みあた》らない。火の揚《あ》がったのはこの辺だと思われる所は、奇麗《きれい》な杉垣ばかり続いて、そのうちの一軒からは微《かす》かに琴《こと》の音《ね》が洩《も》れた。

     霧

 昨宵《ゆうべ》は夜中《よじゅう》枕の上で、ばちばち云う響を聞いた。これは近所にクラパム・ジャンクションと云う大停車場《おおステーション》のある御蔭《おかげ》である。このジャンクションには一日のうちに、汽車が千いくつか集まってくる。それを細《こま》かに割りつけて見ると、一分に一《ひ》と列車ぐらいずつ出入《でいり》をする訳になる。その各列車が霧《きり》の深い時には、何かの仕掛《しかけ》で、停車場|間際《まぎわ》へ来ると、爆竹《ばくちく》のような音を立てて相図をする。信号の灯光は青でも赤でも全く役に立たないほど暗くなるからである。
 寝台《ねだい》を這《は》い下りて、北窓の日蔽《ブラインド》を捲《ま》き上げて外面《そと》を見おろすと、外面は一面に茫《ぼう》としている。下は芝生の底から、三方|煉瓦《れんが》の塀《へい》に囲われた一間余《いっけんよ》の高さに至るまで、何も見えない。ただ空《むな》しいものがいっぱい詰っている。そうして、それが寂《しん》として凍《こお》っている。隣の庭もその通りである。この庭には奇麗《きれい》なローンがあって、春先の暖かい時分になると、白い髯《ひげ》を生《はや》した御爺《おじい》さんが日向《ひなた》ぼっこをしに出て来る。その時この御爺さんは、いつでも右の手に鸚鵡《おうむ》を留まらしている。そうして自分の目を鸚鵡の嘴《くちばし》で突つかれそうに近く、鳥の傍《そば》へ持って行く。鸚鵡は羽搏《はばた》きをして、しきりに鳴き立てる。御爺さんの出ないときは、娘が長い裾《すそ》を引いて、絶え間なく芝刈《しばかり》器械をローンの上に転《ころ》がしている。この記憶に富んだ庭も、今は全く霧《きり》に埋《うま》って、荒果《あれは》てた自分の下宿のそれと、何の境もなくのべつに続いている。
 裏通りを隔《へだ》てて向う側に高いゴシック式の教会の塔がある。その塔の灰色に空を刺す天辺《てっぺん》でいつでも鐘が鳴る。日曜はことにはなはだしい。今日は鋭く尖《とが》った頂きは無論の事、切石を不揃《ふそろい》に畳み上げた胴中《どうなか》さえ所在《ありか》がまるで分らない。それかと思うところが、心持黒いようでもあるが、鐘の音《ね》はまるで響かない。鐘の形の見えない濃い影の奥に深く鎖《とざ》された。
 表へ出ると二間ばかり先は見える。その二間を行き尽くすとまた二間ばかり先が見えて来る。世の中が二間四方に縮《ちぢ》まったかと思うと、歩けば歩《あ》るくほど新しい二間四方が露《あら》われる。その代り今通って来た過去の世界は通るに任《まか》せて消えて行く。
 四つ角でバスを待ち合せていると、鼠色《ねずみいろ》の空気が切り抜かれて急に眼の前へ馬の首が出た。それだのにバスの屋根にいる人は、まだ霧を出切らずにいる。こっちから霧を冒《おか》して、飛乗って下を見ると、馬の首はもう薄ぼんやりしている。バスが行き逢《あ》うときは、行き逢った時だけ奇麗《きれい》だなと思う。思う間もなく色のあるものは、濁った空《くう》の中に消えてしまう。漠々《ばくばく》として無色の裡《うち》に包まれて行った。ウェストミンスター橋を通るとき、白いものが一二度眼を掠《かす》めて翻《ひる》がえった。眸《ひとみ》を凝《こ》らして、その行方《ゆくえ》を見つめていると、封じ込められた大気の裡《うち》に、鴎《かもめ》が夢のように微《かす》かに飛んでいた。その時頭の上でビッグベンが厳《おごそか》に十時を打ち出した。仰ぐと空の中でただ音《おん》だけがする。
 ヴィクトリヤで用を足《た》して、テート画館の傍《はた》を河沿《かわぞい》にバタシーまで来ると、今まで鼠色《ねずみいろ》に見えた世界が、突然と四方からばったり暮れた。泥炭《ピート》を溶《と》いて濃く、身の周囲《ま
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