ら静かな眸《ひとみ》が座敷の下に落ちた。井深はまた机の方に向き直った。
その晩井深は何遍《なんべん》となくこの画を見た。そうして、どことなく細君の評が当っているような気がし出した。けれども明《あく》る日になったら、そうでもないような顔をして役所へ出勤した。四時頃|家《うち》へ帰って見ると、昨夕《ゆうべ》の額は仰向《あおむ》けに机の上に乗せてある。午《ひる》少し過に、欄間《らんま》の上から突然落ちたのだという。道理で硝子《ガラス》がめちゃめちゃに破《こわ》れている。井深は額の裏を返して見た。昨夕|紐《ひも》を通した環《かん》が、どうした具合か抜けている。井深はそのついでに額の裏を開けて見た。すると画と背中合せに、四つ折の西洋紙が出た。開けて見ると、印気《インキ》で妙な事が書いてある。
「モナリサの唇には女性《にょしょう》の謎《なぞ》がある。原始以降この謎を描き得たものはダ ヴィンチだけである。この謎を解き得たものは一人もない。」
翌日《あくるひ》井深は役所へ行って、モナリサとは何だと云って、皆《みんな》に聞いた。しかし誰も分らなかった。じゃダ ヴィンチとは何だと尋ねたが、やっぱり誰も分らなかった。井深は細君の勧《すすめ》に任《まか》せてこの縁喜《えんぎ》の悪い画を、五銭で屑屋《くずや》に売り払った。
火事
息が切れたから、立ち留まって仰向くと、火の粉《こ》がもう頭の上を通る。霜《しも》を置く空の澄み切って深い中に、数を尽くして飛んで来ては卒然《そつぜん》と消えてしまう。かと思うと、すぐあとから鮮《あざやか》なやつが、一面に吹かれながら、追《おっ》かけながら、ちらちらしながら、熾《さかん》にあらわれる。そうして不意に消えて行く。その飛んでくる方角を見ると、大きな噴水を集めたように、根が一本になって、隙間《すきま》なく寒い空を染めている。二三間先に大きな寺がある。長い石段の途中に太い樅《もみ》が静かな枝を夜《よ》に張って、土手から高く聳《そび》えている。火はその後《うしろ》から起る。黒い幹と動かぬ枝をことさらに残して、余る所は真赤《まっか》である。火元はこの高い土手の上に違《ちがい》ない。もう一町ほど行って左へ坂を上《あが》れば、現場《げんば》へ出られる。
また急ぎ足に歩き出した。後から来るものは皆追越して行く。中には擦れ違に大きな声をかけるものがある。暗い路は自《おの》ずと神経的に活《い》きて来た。坂の下まで歩いて、いよいよ上《のぼ》ろうとすると、胸を突くほど急である。その急な傾斜を、人の頭がいっぱいに埋《うず》めて、上から下まで犇《ひしめ》いている。焔《ほのお》は坂の真上から容赦《ようしゃ》なく舞い上る。この人の渦《うず》に捲《ま》かれて、坂の上まで押し上げられたら、踵《くびす》を回《めぐ》らすうちに焦《こ》げてしまいそうである。
もう半町ほど行くと、同じく左へ折れる大きな坂がある。上《のぼ》るならこちらが楽で安全であると思い直して、出合頭《であいがしら》の人を煩《わずら》わしく避《よ》けて、ようやく曲り角まで出ると、向うから劇《はげ》しく号鈴《ベル》を鳴らして蒸汽喞筒《じょうきポンプ》が来た。退《の》かぬものはことごとく敷《し》き殺《ころ》すぞと云わぬばかりに人込の中を全速力で駆《か》り立てながら、高い蹄《ひづめ》の音と共に、馬の鼻面《はなづら》を坂の方へ一捻《ひとひねり》に向直《むけなお》した。馬は泡を吹いた口を咽喉《のど》に摺《す》りつけて、尖《とが》った耳を前に立てたが、いきなり前足を揃《そろ》えてもろに飛び出した。その時栗毛の胴が、袢天《はんてん》を着た男の提灯《ちょうちん》を掠《かす》めて、天鵞絨《びろうど》のごとく光った。紅色《べにいろ》に塗った太い車の輪が自分の足に触れたかと思うほど際《きわ》どく回った。と思うと、喞筒は一直線に坂を馳《か》け上がった。
坂の中途へ来たら、前は正面にあった※[#「(諂-言)+炎」、第3水準1-87-64]《ほのお》が今度は筋違《すじかい》に後の方に見え出した。坂の上からまた左へ取って返さなければならない。横丁《よこちょう》を見つけていると、細い路次《ろじ》のようなのが一つあった。人に押されて入り込むと真暗である。ただ一寸《いっすん》のセキ[#「セキ」に傍点]もないほど詰《つ》んでいる。そうして互に懸命な声を揚《あ》げる。火は明かに向うに燃えている。
十分の後《のち》ようやく路次を抜けて通りへ出た。その通りもまた組屋敷《くみやしき》ぐらいな幅で、すでに人でいっぱいになっている。路次を出るや否や、さっき地《じ》を蹴《け》って、馳け上がった蒸汽喞筒が眼の前にじっとしていた。喞筒はようやくここまで馬を動かしたが、二三間先きの曲り角に妨《さまた》げられて、どうする
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