徳的の労力とどんどん引き換えになる。そうして、勝手次第に精神界が攪乱《かくらん》されてしまう。不都合|極《きわ》まる魔物じゃないか。だから色分《いろわけ》にして、少しその分《ぶん》を知らしめなくっちゃいかんよ」
 自分は色分説《いろわけせつ》に賛成した。それからしばらくして、空谷子に尋ねて見た。
「器械的の労力で道徳的の労力を買収するのも悪かろうが、買収される方も好かあないんだろう」
「そうさな。今のような善知善能《ぜんちぜんのう》の金を見ると、神も人間に降参するんだから仕方がないかな。現代の神は野蛮だからな」
 自分は空谷子と、こんな金にならない話をして帰った。

     心

 二階の手摺《てすり》に湯上りの手拭《てぬぐい》を懸《か》けて、日の目の多い春の町を見下《みおろ》すと、頭巾《ずきん》を被《かむ》って、白い髭《ひげ》を疎《まば》らに生《は》やした下駄《げた》の歯入が垣の外を通る。古い鼓《つづみ》を天秤棒《てんびんぼう》に括《くく》りつけて、竹のへらでかんかんと敲《たた》くのだが、その音は頭の中でふと思い出した記憶のように、鋭いくせに、どこか気が抜けている。爺さんが筋向《すじむこう》の医者の門の傍《わき》へ来て、例の冴《さ》え損《そこ》なった春の鼓《つづみ》をかんと打つと、頭の上に真白に咲いた梅の中から、一羽の小鳥が飛び出した。歯入は気がつかずに、青い竹垣をなぞえに向《むこう》の方へ廻り込んで見えなくなった。鳥は一摶《ひとはばたき》に手摺の下まで飛んで来た。しばらくは柘榴《ざくろ》の細枝に留《とま》っていたが、落ちつかぬと見えて、二三度|身《み》ぶりを易《か》える拍子《ひょうし》に、ふと欄干《らんかん》に倚《よ》りかかっている自分の方を見上げるや否や、ぱっと立った。枝の上が煙《けむ》るごとくに動いたと思ったら、小鳥はもう奇麗《きれい》な足で手摺の桟《さん》を踏《ふ》まえている。
 まだ見た事のない鳥だから、名前を知ろうはずはないが、その色合が著《いちじ》るしく自分の心を動かした。鶯《うぐいす》に似て少し渋味《しぶみ》の勝った翼《つばさ》に、胸は燻《くす》んだ、煉瓦《れんが》の色に似て、吹けば飛びそうに、ふわついている。その辺《あたり》には柔《やわら》かな波を時々打たして、じっとおとなしくしている。怖《おど》すのは罪だと思って、自分もしばらく、手摺に倚ったまま、指一本も動かさずに辛抱していたが、存外鳥の方は平気なようなので、やがて思い切って、そっと身を後《うしろ》へ引いた。同時に鳥はひらりと手摺の上に飛び上がって、すぐと眼の前に来た。自分と鳥の間はわずか一尺ほどに過ぎない。自分は半《なか》ば無意識に右手《めて》を美しい鳥の方に出した。鳥は柔《やわら》かな翼《つばさ》と、華奢《きゃしゃ》な足と、漣《さざなみ》の打つ胸のすべてを挙《あ》げて、その運命を自分に託するもののごとく、向うからわが手の中《うち》に、安らかに飛び移った。自分はその時丸味のある頭を上から眺めて、この鳥は……と思った。しかしこの鳥は……の後《あと》はどうしても思い出せなかった。ただ心の底の方にその後《あと》が潜《ひそ》んでいて、総体を薄く暈《ぼか》すように見えた。この心の底一面に煮染《にじ》んだものを、ある不可思議の力で、一所《ひとところ》に集めて判然《はっきり》と熟視したら、その形は、――やっぱりこの時、この場に、自分の手のうちにある鳥と同じ色の同じ物であったろうと思う。自分は直《ただち》に籠《かご》の中に鳥を入れて、春の日影の傾《かたむ》くまで眺めていた。そうしてこの鳥はどんな心持で自分を見ているだろうかと考えた。
 やがて散歩に出た。欣々然《きんきんぜん》として、あてもないのに、町の数をいくつも通り越して、賑《にぎや》かな往来《おうらい》を行ける所まで行ったら、往来は右へ折れたり左へ曲ったりして、知らない人の後《あと》から、知らない人がいくらでも出て来る。いくら歩いても賑《にぎや》かで、陽気で、楽々しているから、自分はどこの点で世界と接触して、その接触するところに一種の窮屈を感ずるのか、ほとんど想像も及ばない。知らない人に幾千人となく出逢《であ》うのは嬉《うれ》しいが、ただ嬉しいだけで、その嬉しい人の眼つきも鼻つきもとんと頭に映らなかった。するとどこかで、宝鈴《ほうれい》が落ちて廂瓦《ひさしがわら》に当るような音がしたので、はっと思って向うを見ると、五六間先の小路《こうじ》の入口に一人の女が立っていた。何を着ていたか、どんな髷《まげ》に結《ゆ》っていたか、ほとんど分らなかった。ただ眼に映ったのはその顔である。その顔は、眼と云い、口と云い、鼻と云って、離れ離れに叙述する事のむずかしい――否、眼と口と鼻と眉《まゆ》と額といっしょになって、たった一つ自
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