分のために作り上げられた顔である。百年の昔からここに立って、眼も鼻も口もひとしく自分を待っていた顔である。百年の後《のち》まで自分を従えてどこまでも行く顔である。黙って物を云う顔である。女は黙って後《うしろ》を向いた。追いついて見ると、小路と思ったのは露次《ろじ》で、不断《ふだん》の自分なら躊躇《ちゅうちょ》するくらいに細くて薄暗い。けれども女は黙ってその中へ這入《はい》って行く。黙っている。けれども自分に後を跟《つ》けて来いと云う。自分は身を穿《すぼ》めるようにして、露次の中に這入った。
 黒い暖簾《のれん》がふわふわしている。白い字が染抜いてある。その次には頭を掠《かす》めるくらいに軒灯が出ていた。真中に三階松《さんがいまつ》が書いて下に本《もと》とあった。その次には硝子《ガラス》の箱に軽焼《かるやき》の霰《あられ》が詰っていた。その次には軒の下に、更紗《さらさ》の小片《こぎれ》を五つ六つ四角な枠《わく》の中に並べたのが懸《か》けてあった。それから香水の瓶《びん》が見えた。すると露次は真黒な土蔵の壁で行き留った。女は二尺ほど前にいた。と思うと、急に自分の方をふり返った。そうして急に右へ曲った。その時自分の頭は突然|先刻《さっき》の鳥の心持に変化した。そうして女に尾《つ》いて、すぐ右へ曲った。右へ曲ると、前よりも長い露次が、細く薄暗く、ずっと続いている。自分は女の黙って思惟するままに、この細く薄暗く、しかもずっと続いている露次の中を鳥のようにどこまでも跟いて行った。

     変化

 二人は二畳敷の二階に机を並べていた。その畳の色の赤黒く光った様子がありありと、二十余年後の今日《こんにち》までも、眼の底に残っている。部屋は北向で、高さ二尺に足らぬ小窓を前に、二人が肩と肩を喰っつけるほど窮屈な姿勢で下調《したしらべ》をした。部屋の内が薄暗くなると、寒いのを思い切って、窓障子《まどしょうじ》を明け放ったものである。その時窓の真下の家《うち》の、竹格子《たけごうし》の奥に若い娘がぼんやり立っている事があった。静かな夕暮などはその娘の顔も姿も際立《きわだ》って美しく見えた。折々はああ美しいなと思って、しばらく見下《みおろ》していた事もあった。けれども中村には何にも言わなかった。中村も何にも言わなかった。
 女の顔は今は全く忘れてしまった。ただ大工か何かの娘らしかったという感じだけが残っている。無論|長屋住居《ながやずまい》の貧しい暮しをしていたものの子である。我ら二人の寝起《ねおき》する所も、屋根に一枚の瓦《かわら》さえ見る事のできない古長屋の一部であった。下には学僕《がくぼく》と幹事を混《ま》ぜて十人ばかり寄宿していた。そうして吹《ふ》き曝《さら》しの食堂で、下駄《げた》を穿《は》いたまま、飯を食った。食料は一箇月に二円であったが、その代りはなはだ不味《まず》いものであった。それでも、隔日に牛肉の汁を一度ずつ食わした。もちろん肉の膏《あぶら》が少し浮いて、肉の香《か》が箸《はし》に絡《から》まって来るくらいなところであった。それで塾生は幹事が狡猾《こうかつ》で、旨《うま》いものを食わせなくっていかんとしきりに不平をこぼしていた。
 中村と自分はこの私塾《しじゅく》の教師であった。二人とも月給を五円ずつ貰って、日に二時間ほど教えていた。自分は英語で地理書や幾何学を教えた。幾何の説明をやる時に、どうしてもいっしょになるべき線が、いっしょにならないで困った事がある。ところが込《こ》みいった図を、太い線で書いているうちに、その線が二つ、黒板の上で重なり合っていっしょになってくれたのは嬉しかった。
 二人は朝起きると、両国橋を渡って、一つ橋の予備門に通学した。その時分予備門の月謝は二十五銭であった。二人は二人の月給を机の上にごちゃごちゃに攪《か》き交《ま》ぜて、そのうちから二十五銭の月謝と、二円の食料と、それから湯銭|若干《そくばく》を引いて、あまる金を懐《ふところ》に入れて、蕎麦《そば》や汁粉《しるこ》や寿司《すし》を食い廻って歩いた。共同財産が尽きると二人とも全く出なくなった。
 予備門へ行く途中両国橋の上で、貴様の読んでいる西洋の小説のなかには美人が出て来るかと中村が聞いた事がある。自分はうん出て来ると答えた。しかしその小説は何の小説で、どんな美人が出て来たのか、今ではいっこう覚えない。中村はその時から小説などを読まない男であった。
 中村が端艇競争《ボートきょうそう》のチャンピヨンになって勝った時、学校から若干の金をくれて、その金で書籍を買って、その書籍へある教授が、これこれの記念に贈ると云う文句を書き添えた事がある。中村はその時おれは書物なんかいらないから、何でも貴様の好《すき》なものを買ってやると云った。そうしてアーノルドの
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