論文と沙翁《さおう》のハムレットを買ってくれた。その本はいまだに持っている。自分はその時始めてハムレットと云うものを読んで見た。ちっとも分らなかった。
学校を出ると中村はすぐ台湾に行った。それぎりまるで逢《あ》わなかったのが、偶然|倫敦《ロンドン》の真中でまたぴたりと出喰《でく》わした。ちょうど七年ほど前である。その時中村は昔の通りの顔をしていた。そうして金をたくさん持っていた。自分は中村といっしょに方々遊んで歩いた。中村も以前と異《かわ》って、貴様の読んでいる西洋の小説には美人が出て来るかなどとは聞かなかった。かえって向うから西洋の美人の話をいろいろした。
日本へ帰ってからまた逢《あ》わなくなった。すると今年の一月の末、突然使をよこして、話がしたいから築地の新喜楽《しんきらく》まで来いと云って来た。正午《ひる》までにという注文だのに、時計はもう十一時過である。そうしてその日に限って北風が非常に強く吹いていた。外へ出ると、帽子も車も吹き飛ばされそうな勢いである。自分はその日の午後に是非片づけなくてはならない用事を控《ひか》えていた。妻《さい》に電話を懸《か》けさせて、明日《あす》じゃ都合が悪いかと聞かせると、明日になると出立の準備や何かで、こっちも忙《いそが》しいから……と云うところで、電話が切れてしまった。いくら、どうしても懸《かか》らない。おおかた風のせいでしょうと、妻が寒い顔をして帰って来た。それでとうとう逢わずにしまった。
昔の中村は満鉄の総裁になった。昔の自分は小説家になった。満鉄の総裁とはどんな事をするものかまるで知らない。中村も自分の小説をいまだかつて一|頁《ページ》も読んだ事はなかろう。
クレイグ先生
クレイグ先生は燕《つばめ》のように四階の上に巣をくっている。舗石《しきいし》の端に立って見上げたって、窓さえ見えない。下からだんだんと昇って行くと、股《もも》の所が少し痛くなる時分に、ようやく先生の門前に出る。門と申しても、扉や屋根のある次第ではない。幅三尺足らずの黒い戸に真鍮《しんちゅう》の敲子《ノッカー》がぶら下がっているだけである。しばらく門前で休息して、この敲子の下端《かたん》をこつこつと戸板へぶつけると、内から開けてくれる。
開けてくれるものは、いつでも女である。近眼《ちかめ》のせいか眼鏡をかけて、絶えず驚いている。年は五十くらいだから、ずいぶん久しい間世の中を見て暮したはずだが、やっぱりまだ驚いている。戸を敲《たた》くのが気の毒なくらい大きな眼をしていらっしゃいと云う。
這入《はい》ると女はすぐ消えてしまう。そうして取附《とっつき》の客間――始めは客間とも思わなかった。別段装飾も何もない。窓が二つあって、書物がたくさん並んでいるだけである。クレイグ先生はたいていそこに陣取っている。自分の這入《はい》って来るのを見ると、やあと云って手を出す。握手をしろという相図だから、手を握る事は握るが、向《むこう》ではかつて握り返した事がない。こっちもあまり握り心地が好い訳でもないから、いっそ廃《よ》したらよかろうと思うのに、やっぱりやあと云って毛だらけな皺《しわ》だらけな、そうして例によって消極的な手を出す。習慣は不思議なものである。
この手の所有者は自分の質問を受けてくれる先生である。始めて逢《あ》った時報酬はと聞いたら、そうさな、とちょっと窓の外を見て、一回七|志《シルリング》じゃどうだろう。多過ぎればもっと負けても好いと云われた。それで自分は一回七志の割で月末に全額を払う事にしていたが、時によると不意に先生から催促を受ける事があった。君、少し金が入《い》るから払って行ってくれんかなどと云われる。自分は洋袴《ズボン》の隠《かく》しから金貨を出して、むき出しにへえと云って渡すと、先生はやあすまんと受取りながら、例の消極的な手を拡《ひろ》げて、ちょっと掌《てのひら》の上で眺めたまま、やがてこれを洋袴の隠しへ収められる。困る事には先生けっして釣を渡さない。余分を来月へ繰《く》り越《こ》そうとすると、次の週にまた、ちょっと書物を買いたいからなどと催促される事がある。
先生は愛蘭土《アイヤランド》の人で言葉がすこぶる分らない。少し焦《せ》きこんで来ると、東京者が薩摩《さつま》人と喧嘩《けんか》をした時くらいにむずかしくなる。それで大変そそっかしい非常な焦きこみ屋なんだから、自分は事が面倒になると、運を天に任せて先生の顔だけ見ていた。
その顔がまたけっして尋常じゃない。西洋人だから鼻は高いけれども、段があって、肉が厚過ぎる。そこは自分に善《よ》く似ているのだが、こんな鼻は一見したところがすっきりした好い感じは起らないものである。その代りそこいら中《じゅう》むしゃくしゃしていて、何となく野趣が
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