しら》えたんだと云って、指の股《また》で、枝の心《しん》になっている針金をぐるぐる廻転さしていた。妹といっしょに家を持っている事はこの時始めて知った。兄妹《きょうだい》して薪屋《まきや》の二階を一間借りて、妹は毎日|刺繍《ぬいとり》の稽古《けいこ》に通《かよ》っているのだそうである。その次来た時には御納戸《おなんど》の結び目に、白い蝶《ちょう》を刺繍《ぬいと》った襟飾《えりかざ》りを、新聞紙にくるんだまま、もし御掛けなさるなら上げましょうと云って置いて行った。それを安野《やすの》が私に下さいと云って取って帰った。
そのほか彼は時々来た。来るたびに自分の国の景色《けいしょく》やら、習慣やら、伝説やら、古めかしい祭礼の模様やら、いろいろの事を話した。彼の父は漢学者であると云う事も話した。篆刻《てんこく》が旨《うま》いという事も話した。御祖母《おばあ》さんは去る大名の御屋敷に奉公していた。申《さる》の年の生れだったそうだ。大変殿様の御気に入りで、猿に縁《ちな》んだものを時々下さった。その中に崋山《かざん》の画《か》いた手長猿《てながざる》の幅《ふく》がある。今度持って来て御覧に入れましょうと云った。青年はそれぎり来なくなった。
すると春が過ぎて、夏になって、この青年の事もいつか忘れるようになった或日、――その日は日に遠い座敷の真中に、単衣《ひとえ》を唯《ただ》一枚つけて、じっと書見《しょけん》をしていてさえ堪《た》えがたいほどに暑かった。――彼れは突然やって来た。
相変らず例の派出《はで》な袴《はかま》を穿《は》いて、蒼白《あおしろ》い額ににじんだ汗をこくめいに手拭《てぬぐい》で拭《ふ》いている。少し瘠《や》せたようだ。はなはだ申し兼ねたが金を二十円貸して下さいという。実は友人が急病に罹《かか》ったから、さっそく病院へ入れたのだが、差し当り困るのは金で、いろいろ奔走もして見たが、ちょっとできない。やむをえず上がった。と説明した。
自分は書見をやめて、青年の顔をじっと見た。彼は例のごとく両手を膝《ひざ》の上に正しく置いたまま、どうぞと低い声で云った。あなたの友人の家《うち》はそれほど貧しいのかと聞き返したら、いやそうではない、ただ遠方で急の間に合わないから御願をする、二週間|経《た》てば、国から届くはずだからその時はすぐと御返しするという答である。自分は金の調達《ちょうだつ》を引き受けた。その時|彼《か》れは風呂敷包の中から一幅の懸物《かけもの》を取り出して、これがせんだって御話をした崋山《かざん》の軸《じく》ですと云って、紙表装の半切《はんせつ》ものを展《の》べて見せた。旨《うま》いのか不味《まず》いのか判然《はっきり》とは解らなかった。印譜《いんぷ》をしらべて見ると、渡辺崋山にも横山華山にも似寄った落款《らっかん》がない。青年はこれを置いて行きますと云うから、それには及ばないと辞退したが、聞かずに預けて行った。翌日また金を取りに来た。それっきり音沙汰《おとさた》がない。約束の二週間が来ても影も形も見せなかった。自分は欺《だま》されたのかも知れないと思った。猿《さる》の軸は壁へ懸《か》けたまま秋になった。
袷《あわせ》を着て気の緊《し》まる時分に、長塚《ながつか》が例のごとく金を借《か》してくれと云って来た。自分はそうたびたび借すのが厭《いや》であった。ふと例の青年の事を思い出して、こう云う金があるが、もし、それを君が取りに行く気なら取りに行け、取れたら貸してやろうと云うと、長塚は頭を掻《か》いて、少し逡巡《しゅんじゅん》していたが、やがて思い切ったと見えて、行きましょうと答えた。それから、せんだっての金をこの者に渡してくれろという手紙を書いて、それに猿の懸物《かけもの》を添えて、長塚に持たせてやった。
長塚はあくる日また車でやって来た。来るや否や懐《ふところ》から手紙を出したから、受け取って見ると昨日《きのう》自分の書いたものである。まだ封が切らずにある。行かなかったのかと聞くと、長塚は額《ひたい》に八の字を寄せて、行ったんですけれども、とても駄目です、惨澹《さんたん》たるものです、汚《きた》ない所でしてね、妻君《さいくん》が刺繍《ぬい》をしていましてね、本人が病気でしてね、――金の事なんぞ云い出せる訳のものじゃないんだから、けっして御心配には及びませんと安心させて、掛物《かけもの》だけ帰して来ましたと云う。自分はへええ、そうかと少し驚ろいた。
翌《あく》る日《ひ》、青年から、どうも嘘言《うそ》を吐《つ》いてすまなかった、軸はたしかに受取ったと云う端書《はがき》が来た。自分はその端書を他の信書といっしょに重ねて、乱箱《みだればこ》の中に入れた。そうして、また青年の事を忘れるようになった。
そのうち冬が来た。例のごと
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