君などは、もっとコンフォタブルな所へ落ち着いて勉強したらよかろうと云う注意をした。その時K君は地中海の向側《むこうがわ》へ渡るんだと云って、しきりに旅装をととのえていた。
自分が下宿を出るとき、老令嬢は切《せつ》に思いとまるようにと頼んだ。下宿料は負ける、K君のいない間は、あの部屋を使っても構わないとまで云ったが、自分はとうとう南の方へ移ってしまった。同時にK君も遠くへ行ってしまった。
二三箇月してから、突然K君の手紙に接した。旅から帰って来た。当分ここにいるから遊びに来いと書いてあった。すぐ行きたかったけれども、いろいろ都合があって、北の果《はて》まで推《お》しかける時間がなかった。一週間ほどして、イスリントンまで行く用事ができたのを幸いに、帰りにK君の所へ回って見た。
表二階の窓から、例の羽二重《はぶたえ》の窓掛が引《ひ》き絞《しぼ》ったまま硝子《ガラス》に映っている。自分は暖かい煖炉《ストーブ》と、海老茶《えびちゃ》の繻子《しゅす》の刺繍《ぬいとり》と、安楽椅子と、快活なK君の旅行談を予想して、勇んで、門を入って、階段を駆《か》け上《あが》るように敲子《ノッカー》をとんとんと打った。戸の向側《むこうがわ》に足音がしないから、通じないのかと思って、再び敲子に手を掛けようとする途端《とたん》に、戸が自然《じねん》と開《あ》いた。自分は敷居から一歩なかへ足を踏み込んだ。そうして、詫《わ》びるように自分をじっと見上げているアグニスと顔を合わした。その時この三箇月ほど忘れていた、過去の下宿の匂が、狭い廊下の真中で、自分の嗅覚《きゅうかく》を、稲妻《いなずま》の閃《ひら》めくごとく、刺激した。その匂のうちには、黒い髪と黒い眼と、クルーゲルのような顔と、アグニスに似た息子《むすこ》と、息子の影のようなアグニスと、彼らの間に蟠《わだか》まる秘密を、一度にいっせいに含んでいた。自分はこの匂を嗅《か》いだ時、彼らの情意、動作、言語、顔色を、あざやかに暗い地獄の裏《うち》に認めた。自分は二階へ上がってK君に逢《あ》うに堪《た》えなかった。
猫の墓
早稲田へ移ってから、猫がだんだん瘠《や》せて来た。いっこうに小供と遊ぶ気色《けしき》がない。日が当ると縁側《えんがわ》に寝ている。前足を揃《そろ》えた上に、四角な顎《あご》を載せて、じっと庭の植込《うえこみ》を眺めたまま、いつまでも動く様子が見えない。小供がいくらその傍《そば》で騒いでも、知らぬ顔をしている。小供の方でも、初めから相手にしなくなった。この猫はとても遊び仲間にできないと云わんばかりに、旧友を他人扱いにしている。小供のみではない、下女はただ三度の食《めし》を、台所の隅《すみ》に置いてやるだけでそのほかには、ほとんど構いつけなかった。しかもその食はたいてい近所にいる大きな三毛猫が来て食ってしまった。猫は別に怒《おこ》る様子もなかった。喧嘩《けんか》をするところを見た試《ため》しもない。ただ、じっとして寝ていた。しかしその寝方にどことなく余裕《ゆとり》がない。伸《の》んびり楽々と身を横に、日光を領《りょう》しているのと違って、動くべきせき[#「せき」に傍点]がないために――これでは、まだ形容し足りない。懶《ものう》さの度《ど》をある所まで通り越して、動かなければ淋《さび》しいが、動くとなお淋しいので、我慢して、じっと辛抱しているように見えた。その眼つきは、いつでも庭の植込を見ているが、彼《か》れはおそらく木の葉も、幹の形も意識していなかったのだろう。青味がかった黄色い瞳子《ひとみ》を、ぼんやり一《ひ》と所《ところ》に落ちつけているのみである。彼れが家《うち》の小供から存在を認められぬように、自分でも、世の中の存在を判然《はっきり》と認めていなかったらしい。
それでも時々は用があると見えて、外へ出て行く事がある。するといつでも近所の三毛猫から追《おっ》かけられる。そうして、怖《こわ》いものだから、縁側を飛び上がって、立て切ってある障子《しょうじ》を突き破って、囲炉裏《いろり》の傍まで逃げ込んで来る。家のものが、彼れの存在に気がつくのはこの時だけである。彼れもこの時に限って、自分が生きている事実を、満足に自覚するのだろう。
これが度《たび》重なるにつれて、猫の長い尻尾《しっぽ》の毛がだんだん抜けて来た。始めはところどころがぽくぽく穴のように落ち込んで見えたが、後《のち》には赤肌《あかはだ》に脱け広がって、見るも気の毒なほどにだらりと垂れていた。彼れは万事に疲れ果てた、体躯《からだ》を圧《お》し曲げて、しきりに痛い局部を舐《な》め出した。
おい猫がどうかしたようだなと云うと、そうですね、やっぱり年を取ったせいでしょうと、妻《さい》は至極《しごく》冷淡である。自分もそのま
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