まにして放《ほう》っておいた。すると、しばらくしてから、今度は三度のものを時々吐くようになった。咽喉《のど》の所に大きな波をうたして、嚏《くしゃみ》とも、しゃくりともつかない苦しそうな音をさせる。苦しそうだけれども、やむをえないから、気がつくと表へ追い出す。でなければ畳《たたみ》の上でも、布団《ふとん》の上でも容赦《ようしゃ》なく汚す。来客の用意に拵《こしら》えた八反《はったん》の座布団《ざぶとん》は、おおかた彼れのために汚されてしまった。
「どうもしようがないな。腸胃《ちょうい》が悪いんだろう、宝丹《ほうたん》でも水に溶《と》いて飲ましてやれ」
妻《さい》は何とも云わなかった。二三日してから、宝丹を飲ましたかと聞いたら、飲ましても駄目です、口を開《あ》きませんという答をした後《あと》で、魚の骨を食べさせると吐くんですと説明するから、じゃ食わせんが好いじゃないかと、少し嶮《けん》どんに叱りながら書見をしていた。
猫は吐気《はきけ》がなくなりさえすれば、依然として、おとなしく寝ている。この頃では、じっと身を竦《すく》めるようにして、自分の身を支える縁側《えんがわ》だけが便《たより》であるという風に、いかにも切りつめた蹲踞《うずく》まり方をする。眼つきも少し変って来た。始めは近い視線に、遠くのものが映るごとく、悄然《しょうぜん》たるうちに、どこか落ちつきがあったが、それがしだいに怪しく動いて来た。けれども眼の色はだんだん沈んで行く。日が落ちて微《かす》かな稲妻《いなずま》があらわれるような気がした。けれども放《ほう》っておいた。妻も気にもかけなかったらしい。小供は無論猫のいる事さえ忘れている。
ある晩、彼は小供の寝る夜具の裾《すそ》に腹這《はらばい》になっていたが、やがて、自分の捕《と》った魚を取り上げられる時に出すような唸声《うなりごえ》を挙《あ》げた。この時変だなと気がついたのは自分だけである。小供はよく寝ている。妻は針仕事に余念がなかった。しばらくすると猫がまた唸《うな》った。妻はようやく針の手をやめた。自分は、どうしたんだ、夜中に小供の頭でも噛《かじ》られちゃ大変だと云った。まさかと妻はまた襦袢《じゅばん》の袖《そで》を縫い出した。猫は折々唸っていた。
明くる日は囲炉裏《いろり》の縁《ふち》に乗ったなり、一日唸っていた。茶を注《つ》いだり、薬缶《やかん》を取ったりするのが気味が悪いようであった。が、夜になると猫の事は自分も妻もまるで忘れてしまった。猫の死んだのは実にその晩である。朝になって、下女が裏の物置に薪《まき》を出しに行った時は、もう硬くなって、古い竈《へっつい》の上に倒れていた。
妻はわざわざその死態《しにざま》を見に行った。それから今までの冷淡に引《ひ》き更《か》えて急に騒ぎ出した。出入《でいり》の車夫を頼んで、四角な墓標を買って来て、何か書いてやって下さいと云う。自分は表に猫の墓と書いて、裏にこの下に稲妻《いなずま》起る宵《よい》あらんと認《したた》めた。車夫はこのまま、埋《う》めても好いんですかと聞いている。まさか火葬にもできないじゃないかと下女が冷《ひや》かした。
小供も急に猫を可愛《かわい》がり出した。墓標の左右に硝子《ガラス》の罎《びん》を二つ活《い》けて、萩《はぎ》の花をたくさん挿《さ》した。茶碗《ちゃわん》に水を汲《く》んで、墓の前に置いた。花も水も毎日取り替えられた。三日目の夕方に四つになる女の子が――自分はこの時書斎の窓から見ていた。――たった一人墓の前へ来て、しばらく白木の棒を見ていたが、やがて手に持った、おもちゃの杓子《しゃくし》をおろして、猫に供えた茶碗の水をしゃくって飲んだ。それも一度ではない。萩の花の落ちこぼれた水の瀝《したた》りは、静かな夕暮の中に、幾度《いくたび》か愛子《あいこ》の小さい咽喉《のど》を潤《うる》おした。
猫の命日には、妻がきっと一切《ひとき》れの鮭《さけ》と、鰹節《かつぶし》をかけた一杯の飯を墓の前に供える。今でも忘れた事がない。ただこの頃では、庭まで持って出ずに、たいていは茶の間の箪笥《たんす》の上へ載せておくようである。
暖かい夢
風が高い建物に当って、思うごとく真直《まっすぐ》に抜けられないので、急に稲妻《いなずま》に折れて、頭の上から、斜《はす》に舗石《しきいし》まで吹きおろして来る。自分は歩きながら被《かぶ》っていた山高帽《やまたかぼう》を右の手で抑《おさ》えた。前に客待の御者《ぎょしゃ》が一人いる。御者台《ぎょしゃだい》から、この有様を眺めていたと見えて、自分が帽子から手を離して、姿勢を正すや否や、人指指《ひとさしゆび》を竪《たて》に立てた。乗らないかと云う符徴《ふちょう》である。自分は乗らなかった。すると御者は右の手に拳骨
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