時に自分の事をくれぐれも云いおいて死んだのだが、母の財産はみんな阿爺《おやじ》の手に渡って、一銭も自由にする事ができない。仕方がないから、こうして下宿をして小遣《こづかい》を拵《こしら》えるのである。アグニスは――
主婦はそれより先を語らなかった。アグニスと云うのはここのうちに使われている十三四の女の子の名である。自分はその時今朝見た息子《むすこ》の顔と、アグニスとの間にどこか似たところがあるような気がした。あたかもアグニスは焼麺麭《トースト》を抱《かか》えて厨《くりや》から出て来た。
「アグニス、焼麺麭《トースト》を食べるかい」
アグニスは黙って、一片《いっぺん》の焼麺麭を受けてまた厨の方へ退いた。
一箇月の後《のち》自分はこの下宿を去った。
過去の匂い
自分がこの下宿を出る二週間ほど前に、K君は蘇格蘭《スコットランド》から帰って来た。その時自分は主婦によってK君に紹介された。二人の日本人が倫敦《ロンドン》の山の手の、とある小さな家に偶然落ち合って、しかも、まだ互に名乗《なの》り換《かわ》した事がないので、身分も、素性《すじょう》も、経歴も分らない外国婦人の力を藉《か》りて、どうか何分と頭を下げたのは、考えると今もって妙な気がする。その時この老令嬢は黒い服を着ていた。骨張って膏《あぶら》の脱けたような手を前へ出して、Kさん、これがNさんと云ったが、全く云い切らない先に、また一本の手を相手の方へ寄せて、Nさん、これがKさんと、公平に双方を等分に引き合せた。
自分は老令嬢の態度が、いかにも、厳《おごそか》で、一種重要の気に充《み》ちた形式を具えているのに、尠《すくな》からず驚かされた。K君は自分の向《むこう》に立って、奇麗《きれい》な二重瞼《ふたえまぶち》の尻に皺《しわ》を寄せながら、微笑を洩《も》らしていた。自分は笑うと云わんよりはむしろ矛盾の淋《さび》しみを感じた。幽霊の媒妁《ばいしゃく》で、結婚の儀式を行ったら、こんな心持ではあるまいかと、立ちながら考えた。すべてこの老令嬢の黒い影の動く所は、生気を失って、たちまち古蹟に変化するように思われる。誤ってその肉に触れれば、触れた人の血が、そこだけ冷たくなるとしか想像できない。自分は戸の外に消えてゆく女の足音に半《なか》ば頭《こうべ》を回《めぐ》らした。
老令嬢が出て行ったあとで、自分とK君はたちまち親しくなってしまった。K君の部屋は美くしい絨※[#「疉+毛」、第4水準2−78−16]《じゅうたん》が敷いてあって、白絹《しらぎぬ》の窓掛《まどかけ》が下がっていて、立派な安楽椅子とロッキング・チェアが備えつけてある上に、小さな寝室が別に附属している。何より嬉《うれ》しいのは断えず煖炉《ストーブ》に火を焚《た》いて、惜気《おしげ》もなく光った石炭を崩《くず》している事である。
これから自分はK君の部屋で、K君と二人で茶を飲むことにした。昼はよく近所の料理店《りょうりや》へいっしょに出かけた。勘定《かんじょう》は必ずK君が払ってくれた。K君は何でも築港の調査に来ているとか云って、だいぶ金を持っていた。家《うち》にいると、海老茶《えびちゃ》の繻子《しゅす》に花鳥の刺繍《ぬいとり》のあるドレッシング・ガウンを着て、はなはだ愉快そうであった。これに反して自分は日本を出たままの着物がだいぶ汚《よご》れて、見共《みとも》ない始末であった。K君はあまりだと云って新調の費用を貸してくれた。
二週間の間K君と自分とはいろいろな事を話した。K君が、今に慶応内閣《けいおうないかく》を作るんだと云った事がある。慶応年間に生れたものだけで内閣を作るから慶応内閣と云うんだそうである。自分に、君はいつの生れかと聞くから慶応三年だと答えたら、それじゃ、閣員の資格があると笑っていた。K君はたしか慶応二年か元年生れだと覚えている。自分はもう一年の事で、K君と共に枢機《すうき》に参する権利を失うところであった。
こんな面白い話をしている間に、時々下の家族が噂《うわさ》に上《のぼ》る事があった。するとK君はいつでも眉《まゆ》をひそめて、首を振っていた。アグニスと云う小さい女が一番|可愛想《かわいそう》だと云っていた。アグニスは朝になると石炭をK君の部屋に持って来る。昼過には茶とバタと麺麭《パン》を持って来る。だまって持って来て、だまって置いて帰る。いつ見ても蒼褪《あおざ》めた顔をして、大きな潤《うるおい》のある眼でちょっと挨拶《あいさつ》をするだけである。影のようにあらわれては影のように下りて行く。かつて足音のした試しがない。
ある時自分は、不愉快だから、この家《うち》を出ようと思うとK君に告げた。K君は賛成して、自分はこうして調査のため方々飛び歩いている身体《からだ》だから、構わないが、
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