坐った。日の当った事のないように薄暗い部屋を見回すと、マントルピースの上に淋《さび》しい水仙が活《い》けてあった。主婦は自分に茶だの焼麺麭《トースト》を勧《すす》めながら、四方山《よもやま》の話をした。その時何かの拍子で、生れ故郷は英吉利ではない、仏蘭西《フランス》であるという事を打ち明けた。そうして黒い眼を動かして、後《うしろ》の硝子壜《ガラスびん》に挿《さ》してある水仙を顧《かえ》りみながら、英吉利は曇っていて、寒くていけないと云った。花でもこの通り奇麗《きれい》でないと教えたつもりなのだろう。
自分は肚《はら》の中でこの水仙の乏《とぼ》しく咲いた模様と、この女のひすばった頬の中を流れている、色の褪《さ》めた血の瀝《したたり》とを比較して、遠い仏蘭西で見るべき暖かな夢を想像した。主婦の黒い髪や黒い眼の裏《うち》には、幾年《いくねん》の昔に消えた春の匂《におい》の空《むな》しき歴史があるのだろう。あなたは仏蘭西語を話しますかと聞いた。いいやと答えようとする舌先を遮《さえぎ》って、二三句続け様《ざま》に、滑《なめ》らかな南の方の言葉を使った。こういう骨の勝った咽喉《のど》から、どうして出るだろうと思うくらい美しいアクセントであった。
その夕、晩餐《ばんさん》の時は、頭の禿《は》げた髯《ひげ》の白い老人が卓に着いた。これが私の親父《おやじ》ですと主婦から紹介されたので始めて主人は年寄であったんだと気がついた。この主人は妙な言葉遣《ことばづかい》をする。ちょっと聞いてもけっして英人ではない。なるほど親子して、海峡を渡って、倫敦《ロンドン》へ落ちついたものだなと合点《がてん》した。すると老人が私は独逸人《ドイツじん》であると、尋ねもせぬのに向うから名乗って出た。自分は少し見当《けんとう》が外《はず》れたので、そうですかと云ったきりであった。
部屋へ帰って、書物を読んでいると、妙に下の親子が気に懸《かか》ってたまらない。あの爺さんは骨張った娘と較べてどこも似た所がない。顔中は腫《は》れ上《あが》ったように膨《ふく》れている真中に、ずんぐりした肉の多い鼻が寝転《ねころ》んで、細い眼が二つ着いている。南亜《なんあ》の大統領にクルーゲルと云うのがあった。あれによく似ている。すっきりと心持よくこっちの眸《ひとみ》に映る顔ではない。その上娘に対しての物の云い方が和気《わき》を欠いている。歯が利《き》かなくって、もごもごしているくせに何となく調子の荒いところが見える。娘も阿爺《おやじ》に対するときは、険相《けんそう》な顔がいとど険相になるように見える。どうしても普通の親子ではない。――自分はこう考えて寝た。
翌日朝飯を食いに下りると、昨夕《ゆうべ》の親子のほかに、また一人家族が殖《ふ》えている。新しく食卓に連《つら》なった人は、血色の好い、愛嬌《あいきょう》のある、四十|恰好《がっこう》の男である。自分は食堂の入口でこの男の顔を見た時、始めて、生気のある人間社会に住んでいるような心持ちがした。my brother《マイブラザー》と主婦がその男を自分に紹介した。やっぱり亭主では無かったのである。しかし兄弟とはどうしても受取れないくらい顔立《かおだち》が違っていた。
その日は中食《ちゅうじき》を外でして、三時過ぎに帰って、自分の部屋へ這入《はい》ると間もなく、茶を飲みに来いと云って呼びにきた。今日も曇っている。薄暗い食堂の戸を開けると、主婦がたった一人|煖炉《ストーブ》の横に茶器を控《ひか》えて坐《すわ》っていた。石炭を燃《もや》してくれたので、幾分か陽気な感じがした。燃えついたばかりの※[#「(諂−言)+炎」、第3水準1−87−64]《ほのお》に照らされた主婦の顔を見ると、うすく火熱《ほて》った上に、心持|御白粉《おしろい》を塗《つ》けている。自分は部屋の入り口で化粧の淋《さび》しみと云う事を、しみじみと悟った。主婦は自分の印象を見抜いたような眼遣《めづか》いをした。自分が主婦から一家の事情を聞いたのはこの時である。
主婦の母は、二十五年の昔、ある仏蘭西人《フランスじん》に嫁《とつ》いで、この娘を挙《あ》げた。幾年か連れ添った後《のち》夫は死んだ。母は娘の手を引いて、再び独逸人《ドイツじん》の許《もと》に嫁いだ。その独逸人が昨夜《ゆうべ》の老人である。今では倫敦《ロンドン》のウェスト・エンドで仕立屋の店を出して、毎日毎日そこへ通勤している。先妻の子も同じ店で働いているが、親子非常に仲が悪い。一《ひと》つ家《うち》にいても、口を利《き》いた事がない。息子《むすこ》は夜きっと遅く帰る。玄関で靴を脱いで足袋跣足《たびはだし》になって、爺《おやじ》に知れないように廊下を通って、自分の部屋へ這入って寝てしまう。母はよほど前に失《な》くなった。死ぬ
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