いくら要《い》ったかな」
「あの時は月末《つきずえ》に廿八円払いました」
自分は妻の答を聞いて、座敷《ざしき》煖炉を断念した。座敷煖炉は裏の物置に転《ころ》がっているのである。
「おい、もう少し子供を静かにできないかな」
妻はやむをえないと云うような顔をした。そうして、云った。
「お政《まさ》さんが御腹《おなか》が痛いって、だいぶ苦しそうですから、林さんでも頼んで見て貰いましょうか」
お政さんが二三日寝ている事は知っていたがそれほど悪いとは思わなかった。早く医者を呼んだらよかろうと、こっちから促《うなが》すように注意すると、妻はそうしましょうと答えて、時計を持ったまま出て行った。襖《ふすま》を閉《た》てるとき、どうもこの部屋の寒い事と云った。
まだ、かじかんで仕事をする気にならない。実を云うと仕事は山ほどある。自分の原稿を一回分書かなければならない。ある未知の青年から頼まれた短篇小説を二三篇読んでおく義務がある。ある雑誌へ、ある人の作《さく》を手紙を付けて紹介する約束がある。この二三箇月中に読むはずで読めなかった書籍は机の横に堆《うずた》かく積んである。この一週間ほどは仕事をしようと思って机に向うと人が来る。そうして、皆何か相談を持ち込んでくる。その上に胃が痛む。その点から云うと今日は幸いである。けれども、どう考えても、寒くて億劫《おっくう》で、火鉢《ひばち》から手を離す事ができない。
すると玄関に車を横付けにしたものがある。下女が来て長沢さんがおいでになりましたと云う。自分は火鉢の傍《そば》に竦んだまま、上眼遣《うわめづかい》をして、這入《はい》って来る長沢を見上げながら、寒くて動けないよと云った。長沢は懐中《ふところ》から手紙を出して、この十五日は旧の正月だから、是非都合してくれとか何とか云う手紙を読んだ。相変らず金の相談である。長沢は十二時過に帰った。けれども、まだ寒くてしようがない。いっそ湯にでも行って、元気をつけようと思って、手拭《てぬぐい》を提《さ》げて玄関へ出かかると、御免下《ごめんくだ》さいと云う吉田に出っ食わした。座敷へ上げて、いろいろ身の上話を聞いていると、吉田はほろほろ涙を流して泣き出した。そのうち奥の方では医者が来て何だかごたごたしている。吉田がようやく帰ると、子供がまた泣き出した。とうとう湯に行った。
湯から上ったら始めて暖《あ》ったかになった。晴々《せいせい》して、家《うち》へ帰って書斎に這入ると、洋灯《ランプ》が点《つ》いて窓掛《まどかけ》が下りている。火鉢には新しい切炭《きりずみ》が活《い》けてある。自分は座布団《ざぶとん》の上にどっかりと坐った。すると、妻が奥から寒いでしょうと云って蕎麦湯《そばゆ》を持って来てくれた。お政さんの容体《ようだい》を聞くと、ことによると盲腸炎になるかも知れないんだそうですよと云う。自分は蕎麦湯を手に受けて、もし悪いようだったら、病院に入れてやるがいいと答えた。妻はそれがいいでしょうと茶の間へ引き取った。
妻《さい》が出て行ったらあとが急に静かになった。全くの雪の夜《よ》である。泣く子は幸いに寝たらしい。熱い蕎麦湯《そばゆ》を啜《すす》りながら、あかるい洋灯《ランプ》の下で、継《つ》ぎ立ての切炭《きりずみ》のぱちぱち鳴る音に耳を傾けていると、赤い火気《かっき》が、囲われた灰の中で仄《ほのか》に揺れている。時々薄青い焔《ほのお》が炭の股《また》から出る。自分はこの火の色に、始めて一日の暖味《あたたかみ》を覚えた。そうしてしだいに白くなる灰の表を五分ほど見守っていた。
下宿
始めて下宿をしたのは北の高台である。赤煉瓦《あかれんが》の小じんまりした二階建が気に入ったので、割合に高い一週二|磅《ポンド》の宿料《しゅくりょう》を払って、裏の部屋を一間《ひとま》借り受けた。その時表を専領《せんりょう》しているK氏は目下|蘇格蘭《スコットランド》巡遊中で暫《しばら》くは帰らないのだと主婦の説明があった。
主婦と云うのは、眼の凹《くぼ》んだ、鼻のしゃくれた、顎《あご》と頬の尖《とが》った。鋭い顔の女で、ちょっと見ると、年恰好《としかっこう》の判断ができないほど、女性を超越している。疳《かん》、僻《ひが》み、意地、利《き》かぬ気、疑惑、あらゆる弱点が、穏かな眼鼻をさんざんに弄《もてあそ》んだ結果、こう拗《ひ》ねくれた人相になったのではあるまいかと自分は考えた。
主婦は北の国に似合わしからぬ黒い髪と黒い眸《ひとみ》をもっていた。けれども言語は普通の英吉利人《イギリスじん》と少しも違ったところがない。引き移った当日、階下《した》から茶の案内があったので、降りて行って見ると、家族は誰もいない。北向の小さい食堂に、自分は主婦とたった二人|差向《さしむか》いに
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