棒と云ったまま、裁縫《しごと》をしている御母さんの傍《そば》へ来て泣き出した。御母さんはむきになって、表向《おもてむき》よしを取りにやると、与吉の御袋がどうも御気の毒さまと云ったぎりで毬はとうとう喜いちゃんの手に帰らなかった。
それから三日|経《た》って、喜いちゃんは大きな赤い柿《かき》を一つ持って、また裏へ出た。すると与吉が例の通り崖下へ寄って来た。喜いちゃんは生垣の間から赤い柿を出して、これ上げようかと云った。与吉は下から柿を睨《にら》めながら、なんでえ、なんでえ、そんなもの要《い》らねえやとじっと動かずにいる。要らないの、要らなきゃ、およしなさいと、喜いちゃんは、垣根から手を引っ込めた。すると与吉は、やっぱりなんでえ、なんでえ、擲《な》ぐるぞと云いながらなおと崖の下へ寄って来た。じゃ欲しいのと喜いちゃんはまた柿を出した。欲しいもんけえ、そんなものと与吉は大きな眼をして、見上げている。
こんな問答を四五遍|繰返《くりかえ》したあとで、喜いちゃんは、じゃ上げようと云いながら、手に持った柿をぱたりと崖の下に落した。与吉は周章《あわて》て、泥の着いた柿を拾った。そうして、拾うや否や、がぶりと横に食いついた。
その時与吉の鼻の穴が震《ふる》えるように動いた。厚い唇《くちびる》が右の方に歪《ゆが》んだ。そうして、食いかいた柿の一片《いっぺん》をぺっと吐いた。そうして懸命の憎悪《ぞうお》を眸《ひとみ》の裏《うち》に萃《あつ》めて、渋《しぶ》いや、こんなものと云いながら、手に持った柿を、喜いちゃんに放《ほう》りつけた。柿は喜いちゃんの頭を通り越して裏の物置に当った。喜いちゃんは、やあい食辛抱《くいしんぼう》と云いながら、走《か》け出《だ》して家《うち》へ這入《はい》った。しばらくすると喜いちゃんの家で大きな笑声が聞えた。
火鉢
眼が覚《さ》めたら、昨夜《ゆうべ》抱《だ》いて寝た懐炉《かいろ》が腹の上で冷たくなっていた。硝子戸越《ガラスどごし》に、廂《ひさし》の外を眺めると、重い空が幅三尺ほど鉛《なまり》のように見えた。胃の痛みはだいぶ除《と》れたらしい。思い切って、床の上に起き上がると、予想よりも寒い。窓の下には昨日《きのう》の雪がそのままである。
風呂場は氷でかちかち光っている。水道は凍《こお》り着《つ》いて、栓《せん》が利《き》かない。ようやくの事で温水摩擦《おんすいまさつ》を済まして、茶の間で紅茶を茶碗《ちゃわん》に移していると、二つになる男の子が例の通り泣き出した。この子は一昨日《おととい》も一日泣いていた。昨日も泣き続けに泣いた。妻《さい》にどうかしたのかと聞くと、どうもしたのじゃない、寒いからだと云う。仕方がない。なるほど泣き方がぐずぐずで痛くも苦しくもないようである。けれども泣くくらいだから、どこか不安な所があるのだろう。聞いていると、しまいにはこっちが不安になって来る。時によると小悪《こにく》らしくなる。大きな声で叱《しか》りつけたい事もあるが、何しろ、叱るにはあまり小さ過ぎると思って、つい我慢をする。一昨日も昨日もそうであったが、今日もまた一日そうなのかと思うと、朝から心持が好くない。胃が悪いのでこの頃は朝飯《あさめし》を食わぬ掟《おきて》にしてあるから、紅茶茶碗を持ったまま、書斎へ退《しりぞ》いた。
火鉢《ひばち》に手を翳して、少し暖《あっ》たまっていると、子供は向うの方でまだ泣いている。そのうち掌《てのひら》だけは煙《けむ》が出るほど熱くなった。けれども、背中から肩へかけてはむやみに寒い。ことに足の先は冷え切って痛いくらいである。だから仕方なしにじっとしていた。少しでも手を動かすと、手がどこか冷たい所に触れる。それが刺《とげ》にでも触《さわ》ったほど神経に応《こた》える。首をぐるりと回してさえ、頸《くび》の付根が着物の襟《えり》にひやりと滑《すべ》るのが堪《た》えがたい感じである。自分は寒さの圧迫を四方から受けて、十畳の書斎の真中に竦《すく》んでいた。この書斎は板の間である。椅子を用いべきところを、絨※[#「疉+毛」、第4水準2−78−16]《じゅうたん》を敷いて、普通の畳《たたみ》のごとくに想像して坐っている。ところが敷物が狭いので、四方とも二尺がたは、つるつるした板の間が剥《む》き出《だ》しに光っている。じっとしてこの板の間を眺めて、竦《すく》んでいると、男の子がまだ泣いている。とても仕事をする勇気が出ない。
ところへ妻《さい》がちょっと時計を拝借と這入《はい》って来て、また雪になりましたと云う。見ると、細《こま》かいのがいつの間にか、降り出した。風もない濁った空の途中から、静かに、急がずに、冷刻に、落ちて来る。
「おい、去年、子供の病気で、煖炉《ストーブ》を焚《た》いた時には炭代が
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