。しばらくしてまたごとりと云った。自分はこの怪しい音を約四五遍聞いた。そうして、これは板敷の左にある、戸棚《とだな》の奥から出るに違ないという事をたしかめた。たちまち普通の歩調と、尋常の所作《しょさ》をして、妻の部屋へ帰って来た。鼠《ねずみ》が何か噛《かじ》っているんだ、安心しろと云うと、妻はそうですかとありがたそうな返事をした。それからは二人とも落ちついて寝てしまった。
 朝になってまた顔を洗って、茶の間へ来ると、妻が鼠の噛った鰹節《かつぶし》を、膳《ぜん》の前へ出して、昨夜《ゆうべ》のはこれですよと説明した。自分ははあなるほどと、一晩中|無惨《むざん》にやられた鰹節を眺めていた。すると妻は、あなたついでに鼠を追って、鰹節《おかか》をしまって下されば好いのにと少し不平がましく云った。自分もそうすれば好かったとこの時始めて気がついた。

     柿

 喜《き》いちゃんと云う子がいる。滑《なめ》らかな皮膚《ひふ》と、鮮《あざや》かな眸《ひとみ》を持っているが、頬《ほお》の色は発育の好い世間の子供のように冴々《さえざえ》していない。ちょっと見ると一面に黄色い心持ちがする。御母《おっか》さんがあまり可愛《かわい》がり過ぎて表へ遊びに出さないせいだと、出入りの女髪結《おんなかみゆい》が評した事がある。御母さんは束髪の流行《はや》る今の世に、昔風の髷《まげ》を四日目四日目にきっと結《ゆ》う女で、自分の子を喜いちゃん喜いちゃんと、いつでも、ちゃん付《づけ》にして呼んでいる。このお母《っか》さんの上に、また切下《きりさげ》の御祖母《おばあ》さんがいて、その御祖母さんがまた喜いちゃん喜いちゃんと呼んでいる。喜いちゃん御琴《おこと》の御稽古《おけいこ》に行く時間ですよ。喜いちゃんむやみに表へ出て、そこいらの子供と遊んではいけませんなどと云っている。
 喜《き》いちゃんは、これがために滅多《めった》に表へ出て遊んだ事がない。もっとも近所はあまり上等でない。前に塩煎餅屋《しおせんべいや》がある。その隣に瓦師《かわらし》がある。少し先へ行くと下駄《げた》の歯入と、鋳《い》かけ錠前直《じょうまえなお》しがある。ところが喜いちゃんの家《うち》は銀行の御役人である。塀《へい》のなかに松が植えてある。冬になると植木屋が来て狭い庭に枯松葉《かれまつば》を一面に敷いて行く。
 喜いちゃんは仕方がないから、学校から帰って、退屈になると、裏へ出て遊んでいる。裏は御母《おっか》さんや、御祖母《おばあ》さんが張物《はりもの》をする所である。よしが洗濯をする所である。暮になると向鉢巻《むこうはちまき》の男が臼《うす》を担《かつ》いで来て、餅《もち》を搗《つ》く所である。それから漬菜《つけな》に塩を振って樽《たる》へ詰込む所である。
 喜いちゃんはここへ出て、御母さんや御祖母さんや、よしを相手にして遊んでいる。時には相手のいないのに、たった一人で出てくる事がある。その時は浅い生垣《いけがき》の間から、よく裏の長屋を覗《のぞ》き込む。
 長屋は五六軒ある。生垣の下が三四尺|崖《がけ》になっているのだから、喜いちゃんが覗き込むと、ちょうど上から都合よく見下《みおろ》すようにできている。喜いちゃんは子供心に、こうして裏の長屋を見下すのが愉快なのである。造兵へ出る辰《たつ》さんが肌を抜いで酒を呑《の》んでいると、御酒を呑んでてよと御母さんに話す。大工の源坊《げんぼう》が手斧《ておの》を磨《と》いでいると、何か磨いでてよと御祖母さんに知らせる。そのほか喧嘩《けんか》をしててよ、焼芋《やきいも》を食べててよなどと、見下した通りを報告する。すると、よしが大きな声を出して笑う。御母さんも、御祖母さんも面白そうに笑う。喜いちゃんは、こうして笑って貰うのが一番得意なのである。
 喜いちゃんが裏を覗いていると、時々源坊の倅《せがれ》の与吉と顔を合わす事がある。そうして、三度に一度ぐらいは話をする。けれども喜いちゃんと与吉だから、話の合う訳がない。いつでも喧嘩《けんか》になってしまう。与吉がなんだ蒼《あお》ん膨《ぶく》れと下から云うと、喜いちゃんは上から、やあい鼻垂らし小僧、貧乏人、と軽侮《さげすむ》ように丸い顎《あご》をしゃくって見せる。一遍は与吉が怒って下から物干竿《ものほしざお》を突き出したので、喜いちゃんは驚いて家《うち》へ逃げ込んでしまった。その次には、喜いちゃんが、毛糸で奇麗《きれい》に縢《かが》った護謨毬《ゴムまり》を崖下《がけした》へ落したのを、与吉が拾ってなかなか渡さなかった。御返しよ、放《ほう》っておくれよ、よう、と精一杯にせっついたが与吉は毬を持ったまま、上を見て威張って突立《つった》っている。詫《あや》まれ、詫まったら返してやると云う。喜いちゃんは、誰が詫まるものか、泥
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