棒もやむをえず仕事の中途で逃げたのかも知れない。
そのうち、ほかの部屋に寝ていたものもみんな起きて来た。そうしてみんないろいろな事を云う。もう少し前に小用《こよう》に起きたのにとか、今夜は寝つかれないで、二時頃までは眼が冴《さ》えていたのにとか、ことごとく残念そうである。そのなかで、十《とお》になる長女は、泥棒が台所から這入《はい》ったのも、泥棒がみしみし縁側《えんがわ》を歩いたのも、すっかり知っていると云った。あらまあとお房《ふさ》さんが驚いている。お房さんは十八で、長女と同じ部屋に寝る親類の娘である。自分はまた床へ這入《はい》って寝た。
明くる日はこの騒動で、例よりは少し遅く起きた。顔を洗って、朝食《あさめし》をやっていると、台所で下女が泥棒の足痕《あしあと》を見つけたとか、見つけないとか騒いでいる。面倒《めんどう》だから書斎へ引き取った。引き取って十分も経《た》ったかと思うと、玄関で頼むと云う声がした。勇ましい声である。台所の方へ通じないようだから、自分で取次に出て見たら、巡査が格子《こうし》の前に立っていた。泥棒が這入ったそうですねと笑っている。戸締《とじま》りは好くしてあったのですかと聞くから、いや、どうもあまり好くありませんと答えた。じゃ仕方がない、締《しま》りが悪いとどこからでも這入りますよ、一枚一枚雨戸へ釘《くぎ》を差さなくちゃいけませんと注意する。自分ははあはあと返事をしておいた。この巡査に遇《あ》ってから、悪いものは、泥棒じゃなくって、不取締《ふとりしまり》な主人であるような心持になった。
巡査は台所へ廻った。そこで妻《さい》を捉《つら》まえて、紛失《ふんじつ》した物を手帳に書き付けている。繻珍《しゅちん》の丸帯が一本ですね、――丸帯と云うのは何ですか、丸帯と書いておけば解るですか、そう、それでは繻珍の丸帯が一本と、それから……
下女がにやにや笑っている。この巡査は丸帯も腹合《はらあわ》せもいっこう知らない。すこぶる単簡《たんかん》な面白い巡査である。やがて紛失の目録を十点ばかり書き上げてその下に価格を記入して、すると|〆《しめ》て百五十円になりますねと念を押して帰って行った。
自分はこの時始めて、何を窃《と》られたかを明瞭《めいりょう》に知った。失《な》くなったものは十点、ことごとく帯である。昨夜《ゆうべ》這入ったのは帯泥棒であった。御正月を眼前に控《ひか》えた妻は異《い》な顔をしている。子供が三箇日《さんがにち》にも着物を着換える事ができないのだそうだ。仕方がない。
昼過には刑事が来た。座敷へ上《あが》っていろいろ見ている。桶《おけ》の中に蝋燭《ろうそく》でも立てて仕事をしやしないかと云って、台所の小桶《こおけ》まで検《しら》べていた。まあ御茶でもおあがんなさいと云って、日当りの好い茶の間へ坐らせて話をした。
泥棒はたいてい下谷、浅草|辺《あたり》から電車でやって来て、明くる日の朝また電車で帰るのだそうだ。たいていは捉《つか》まらないものだそうだ。捉まえると刑事の方が損になるものだそうだ。泥棒を電車に乗せると電車賃が損になる。裁判に出ると、弁当代が損になる。機密費《きみつひ》は警視庁が半分取ってしまうのだそうだ。余りを各警察へ割りふるのだそうだ。牛込には刑事がたった三四人しかいないのだそうだ――警察の力ならたいていの事はできる者と信じていた自分は、はなはだ心細い気がした。話をして聞かせる刑事も心細い顔をしていた。
出入《でいり》のものを呼んで戸締りを直そうと思ったら生憎《あやにく》、暮で用が立て込んでいて来られない。そのうちに夜になった。仕方がないから、元の通りにしておいて寝る。みんな気味が悪そうである。自分もけっして好い心持ではない。泥棒は各自勝手に取締《とりしま》るべきものであると警察から宣告されたと一般だからである。
それでも昨日《きのう》の今日《きょう》だから、まあ大丈夫だろうと、気を楽に持って枕に就《つ》いた。するとまた夜中に妻《さい》から起された。さっきから、台所の方ががたがた云っている。気味がわるいから起きて見て下さいと云う。なるほどがたがたいう。妻はもう泥棒が這入《はい》ったような顔をしている。
自分はそっと床を出た。忍び足に妻の部屋を横切って、隔《へだ》ての襖《ふすま》の傍《そば》までくると、次の間では下女が鼾《いびき》をかいている。自分はできるだけ静かに襖を開けた。そうして、真暗な部屋の中に一人立った。ごとりごとりと云う音がする。たしかに台所の入口である。暗いなかを影の動くように三歩《みあし》ほど音のする方へ近《ちかづ》くと、もう部屋の出口である。障子《しょうじ》が立っている。そとはすぐ板敷になる。自分は障子に身を寄せて、暗がりで耳を立てた。やがて、ごとりと云った
前へ
次へ
全31ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング