ロックが真先に立って、どっと吹き出した。自分も調子につれて、いっしょに吹き出した。
 それからさんざんな批評を受けた。中にもフロックのはもっとも皮肉であった。虚子は微笑しながら、仕方なしに自分の鼓《つづみ》に、自分の謡を合せて、めでたく謡《うた》い納《おさ》めた。やがて、まだ廻らなければならない所があると云って車に乗って帰って行った。あとからまたいろいろ若いものに冷かされた。細君までいっしょになって夫を貶《くさ》した末、高浜さんが鼓を御打ちなさる時、襦袢《じゅばん》の袖《そで》がぴらぴら見えたが、大変好い色だったと賞《ほ》めている。フロックはたちまち賛成した。自分は虚子の襦袢の袖の色も、袖の色のぴらぴらするところもけっして好いとは思わない。

     蛇

 木戸を開けて表へ出ると、大きな馬の足迹《あしあと》の中に雨がいっぱい湛《たま》っていた。土を踏むと泥の音が蹠裏《あしのうら》へ飛びついて来る。踵《かかと》を上げるのが痛いくらいに思われた。手桶《ておけ》を右の手に提《さ》げているので、足の抜《ぬ》き差《さし》に都合が悪い。際《きわ》どく踏《ふ》み応《こた》える時には、腰から上で調子を取るために、手に持ったものを放《ほう》り出《だ》したくなる。やがて手桶の尻をどっさと泥の底に据《す》えてしまった。危《あやう》く倒れるところを手桶の柄《え》に乗《の》し懸《かか》って向うを見ると、叔父さんは一間ばかり前にいた。蓑《みの》を着た肩の後《うしろ》から、三角に張った網の底がぶら下がっている。この時|被《かぶ》った笠《かさ》が少し動いた。笠のなかからひどい路《みち》だと云ったように聞えた。蓑の影はやがて雨に吹かれた。
 石橋の上に立って下を見ると、黒い水が草の間から推《お》されて来る。不断《ふだん》は黒節《くろぶし》の上を三寸とは超《こ》えない底に、長い藻《も》が、うつらうつらと揺《うご》いて、見ても奇麗《きれい》な流れであるのに、今日は底から濁った。下から泥を吹き上げる、上から雨が叩《たた》く、真中を渦《うず》が重なり合って通る。しばらくこの渦を見守っていた叔父さんは、口の内で、
「獲《と》れる」と云った。
 二人は橋を渡って、すぐ左へ切れた。渦は青い田の中をうねうねと延びて行く。どこまで押して行くか分らない流れの迹《あと》を跟《つ》けて一町ほど来た。そうして広い田の中に
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