聞かせなさいと所望《しょもう》している。虚子は自分に、じゃ、あなた謡って下さいと依頼した。これは囃《はやし》の何物たるを知らない自分にとっては、迷惑でもあったが、また斬新《ざんしん》という興味もあった。謡いましょうと引き受けた。虚子は車夫を走らして鼓を取り寄せた。鼓がくると、台所から七輪《しちりん》を持って来さして、かんかんいう炭火の上で鼓の皮を焙《あぶ》り始めた。みんな驚いて見ている。自分もこの猛烈な焙りかたには驚いた。大丈夫ですかと尋ねたら、ええ大丈夫ですと答えながら、指の先で張切った皮の上をかんと弾《はじ》いた。ちょっと好い音《ね》がした。もういいでしょうと、七輪からおろして、鼓の緒《お》を締《し》めにかかった。紋服《もんぷく》の男が、赤い緒をいじくっているところが何となく品《ひん》が好い。今度はみんな感心して見ている。
 虚子はやがて羽織を脱いだ。そうして鼓を抱《か》い込《こ》んだ。自分は少し待ってくれと頼んだ。第一彼がどこいらで鼓を打つか見当《けんとう》がつかないからちょっと打ち合せをしたい。虚子は、ここで掛声《かけごえ》をいくつかけて、ここで鼓をどう打つから、おやりなさいと懇《ねんごろ》に説明してくれた。自分にはとても呑《の》み込《こ》めない。けれども合点《がてん》の行くまで研究していれば、二三時間はかかる。やむをえず、好い加減に領承《りょうしょう》した。そこで羽衣《はごろも》の曲《くせ》を謡い出した。春霞《はるがすみ》たなびきにけりと半行ほど来るうちに、どうも出が好くなかったと後悔し始めた。はなはだ無勢力である。けれども途中から急に振るい出しては、総体の調子が崩《くず》れるから、萎靡因循《いびいんじゅん》のまま、少し押して行くと、虚子がやにわに大きな掛声をかけて、鼓《つづみ》をかんと一つ打った。
 自分は虚子がこう猛烈に来ようとは夢にも予期していなかった。元来が優美な悠長《ゆうちょう》なものとばかり考えていた掛声は、まるで真剣勝負のそれのように自分の鼓膜《こまく》を動かした。自分の謡《うたい》はこの掛声で二三度波を打った。それがようやく静まりかけた時に、虚子がまた腹いっぱいに横合から威嚇《おどか》した。自分の声は威嚇されるたびによろよろする。そうして小さくなる。しばらくすると聞いているものがくすくす笑い出した。自分も内心から馬鹿馬鹿しくなった。その時フ
前へ 次へ
全62ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング