一夜
夏目漱石

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)髯《ひげ》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)五|分《ぶ》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「糸+丸」、第3水準1−89−90]
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「美くしき多くの人の、美くしき多くの夢を……」と髯《ひげ》ある人が二たび三たび微吟《びぎん》して、あとは思案の体《てい》である。灯《ひ》に写る床柱《とこばしら》にもたれたる直《なお》き背《せ》の、この時少しく前にかがんで、両手に抱《いだ》く膝頭《ひざがしら》に険《けわ》しき山が出来る。佳句《かく》を得て佳句を続《つ》ぎ能《あた》わざるを恨《うら》みてか、黒くゆるやかに引ける眉《まゆ》の下より安からぬ眼の色が光る。
「描《えが》けども成らず、描けども成らず」と椽《えん》に端居《はしい》して天下晴れて胡坐《あぐら》かけるが繰り返す。兼ねて覚えたる禅語《ぜんご》にて即興なれば間に合わすつもりか。剛《こわ》き髪を五|分《ぶ》に刈りて髯|貯《たくわ》えぬ丸顔を傾けて「描けども、描けども、夢なれば、描けども、成りがたし」と高らかに誦《じゅ》し了《おわ》って、からからと笑いながら、室《へや》の中なる女を顧《かえり》みる。
 竹籠《たけかご》に熱き光りを避けて、微《かす》かにともすランプを隔てて、右手に違い棚、前は緑り深き庭に向えるが女である。
「画家ならば絵にもしましょ。女ならば絹を枠《わく》に張って、縫いにとりましょ」と云いながら、白地の浴衣《ゆかた》に片足をそと崩《くず》せば、小豆皮《あずきがわ》の座布団《ざぶとん》を白き甲が滑《すべ》り落ちて、なまめかしからぬほどは艶《えん》なる居ずまいとなる。
「美しき多くの人の、美しき多くの夢を……」と膝《ひざ》抱《いだ》く男が再び吟じ出すあとにつけて「縫いにやとらん。縫いとらば誰に贈らん。贈らん誰に」と女は態《わざ》とらしからぬ様《さま》ながらちょと笑う。やがて朱塗の団扇《うちわ》の柄《え》にて、乱れかかる頬《ほお》の黒髪をうるさしとばかり払えば、柄《え》の先につけたる紫のふさが波を打って、緑り濃き香油の薫《かお》りの中に躍《おど》り入る。
「我に贈れ」と髯なき人が、すぐ言い添えてまたからからと笑う。女の頬には乳色の底から捕えがたき笑の渦《うず》が浮き上って、瞼《まぶた》にはさっと薄き紅《くれない》を溶《と》く。
「縫えばどんな色で」と髯あるは真面目《まじめ》にきく。
「絹買えば白き絹、糸買えば銀の糸、金の糸、消えなんとする虹《にじ》の糸、夜と昼との界《さかい》なる夕暮の糸、恋の色、恨《うら》みの色は無論ありましょ」と女は眼をあげて床柱《とこばしら》の方を見る。愁《うれい》を溶《と》いて錬《ね》り上げし珠《たま》の、烈《はげ》しき火には堪《た》えぬほどに涼しい。愁の色は昔《むか》しから黒である。
 隣へ通う路次《ろじ》を境に植え付けたる四五本の檜《ひのき》に雲を呼んで、今やんだ五月雨《さみだれ》がまたふり出す。丸顔の人はいつか布団《ふとん》を捨てて椽《えん》より両足をぶら下げている。「あの木立《こだち》は枝を卸《おろ》した事がないと見える。梅雨《つゆ》もだいぶ続いた。よう飽きもせずに降るの」と独《ひと》り言《ごと》のように言いながら、ふと思い出した体《てい》にて、吾《わ》が膝頭《ひざがしら》を丁々《ちょうちょう》と平手をたてに切って敲《たた》く。「脚気《かっけ》かな、脚気かな」
 残る二人は夢の詩か、詩の夢か、ちょと解しがたき話しの緒《いとぐち》をたぐる。
「女の夢は男の夢よりも美くしかろ」と男が云えば「せめて夢にでも美くしき国へ行かねば」とこの世は汚《けが》れたりと云える顔つきである。「世の中が古くなって、よごれたか」と聞けば「よごれました」と※[#「糸+丸」、第3水準1−89−90]扇《がんせん》に軽《かろ》く玉肌《ぎょっき》を吹く。「古き壺《つぼ》には古き酒があるはず、味《あじわ》いたまえ」と男も鵞鳥《がちょう》の翼《はね》を畳《たた》んで紫檀《したん》の柄《え》をつけたる羽団扇《はうちわ》で膝のあたりを払う。「古き世に酔えるものなら嬉《うれ》しかろ」と女はどこまでもすねた体である。
 この時「脚気かな、脚気かな」としきりにわが足を玩《もてあそ》べる人、急に膝頭をうつ手を挙《あ》げて、叱《しっ》と二人を制する。三人の声が一度に途切れる間をククーと鋭どき鳥が、檜の上枝《うわえだ》を掠《かす》めて裏の禅寺の方へ抜ける。ククー。
「あの声がほととぎすか」と羽団扇を棄《す》ててこれも椽側《えんがわ》へ這《は》い出す。見上げる軒端《のきば》を斜め
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